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Q31 ③犬食を反対する論理的な理由はあるのですか?

韓国動物保護団体 討論掲示板より
ある犬食擁護者による犬食賛成論に対する、反論 1
J・Lee氏 編

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まず、犬肉反対をする人たちの分類と観点はいくつかあるようです。

1.伴侶動物的立場

“犬は他の動物とは違う特別な存在であるので、もっと優待されなければならず、伴侶動物であるから食べてはいけない。”

犬を実際に買ってみて、情緒的に共感をしたことのある人であるなら十分共感できるものであるが、犬を飼ったことなく、むしろ犬を嫌いな人たちには、理解するのが難しい論理である。犬肉賛成論者である、シン・ヘチョルも、この伴侶動物論を集中批判していました。正直、伴侶動物論は論理的に完全でない部分が多く、攻撃を受けるのにお誂えです。
犬を飼ったこともなく、また、犬を嫌いな人たちを説得するなら、他の論理を開発しなければならないと思います。犬を嫌いな人たちに“伴侶動物であるから 愛してください!”と、どんなに言ってみても、馬の耳に念仏になります。



2.動物保護論的立場

“犬が他の動物よりも、もっと優待を受けなければならない特別な存在ではないが、動物保護論の立場から見たとき、人間によって殺される動物の数を減らすためにも、犬肉を許容してはならない。”

即ち、この主張は肉食文化全般に対する批判的立場が敷かれているので、豚や牛よりも犬をもっと好きだというのではありません。基本的に全ての動物を、高貴な生命を持つ存在として同じように見ます。即ち、高貴な存在である動物を殺し、食べる肉食、それ事体に対して批判的であるため、なるべく肉食を減らしてみようという時限で、犬肉を反対するものです。気持ちでは豚や牛も反対したいけれど、犬肉とは違い、生活の中にもともと広範囲で広がっているため、現状況では全面的な牛肉・豚肉反対は現実性がなく、よって、すぐに反対しないというだけです。しかし、“菜食をしよう”というキャンペーンなど、他の方法を講究しています。

このように、動物保護論的立場は、必然的に“肉食反対論 - 菜食論”と連結されるのですが、肉食反対論の基本体質になる価値観は、単純に“動物を愛そう”という感情的次元から出てきもします。しかし、より現実的な部分も、根本部分に敷かれています。まさに、全世界的肉食文化が生態系を破壊し、結果的に人間自身にも害悪になるという論理です。即ち、現代人の食生活は菜食よりも肉食を主として広く再編されており、肉類を非正常的に大量生産するために、それだけ環境が破壊されるというものです。環境破壊は人間自身に不利益となって帰ってきて、結果的に人間破壊に繋がるということです。

私たちが、スーパーに行っていつでも肉を買って食べることができるようになったのは、まさに資本主義化されたシステムのためですが、徹底的に動物を“食べるもの”と見てそれらを大量飼育し、幾種ものホルモン剤を注射し、どうのように作ったのかも分からない飼料を食べさせる等、資本主義化された肉食文化は根本的に生態系に脅威になっており、畜産農家や工場式動物農場で排出される糞尿、また、各種環境汚染物質もやはり、生態系に脅威になります。過度な肉類生産がどれほど反生態的で、反環境的なのか、端的に分かる例が、まさに米国の狂牛病牛肉です。(※狂牛病の最初の発祥地は英国)

よって、肉食を反対する人たちの中には、必ずしも動物保護論者ではない人たちも沢山さんいます。より現実的次元でも肉食を減らし菜食で暮らすなら、究極的に人間の生存に助けになるという主張でしょう。
先進国の人たちが肉食を楽しむために、とてつもなく沢山の家畜たちを飼育するのですが、この家畜たちに飼料として供給される植物たちは、やはり幾何級数的に増えなければなりません。当然、植物が、種が絶え、いろいろな環境破壊が起こります。

また、上で言及したとおり、動物を急いで飼育して売るために、いくつもの非正常的な方法(ホルモン剤投与等)を使用していて、このような方法は狂牛病等、人間にも災厄になるだけの疾病を起こしています。狂牛病がどのようにして発生することになったのか、少しだけ勉強してみれば分かります。米国が世界で肉食文化が最も発達していて、肉類供給のために最も苛酷に動物を飼育し、販売している国ですが、まさにその米国で狂牛病が発生しました。その狂牛病牛肉を今、私たちが食べることになりました。私は狂牛病という疾病が現代人類の業だとみています。肉食文化全般に対する警告と言いますか・・・

韓国人が西欧の食習慣を受け入れながら肉類摂取を過度にしていますが、その結果肥満人口の増加、及び、成人病発生率も増加しました。私たちは日常的に食べる牛、豚以外に、犬肉まで合法化してしまったら、牛肉や豚肉によって発生する副作用を同じように味わうことになるでしょう。犬肉が伝統文化だという人もいますが、伝統的な我が民族は農耕民族で、主食は米やキムチのような菜食です。肉は特別な日にだけ食べたものであって、日常生活で毎日食べはしませんでした。菜食を主とした食習慣に帰り、肉類摂取はできるだけ減らすのが妥当です。



韓国動物保護団体 討論掲示板より
ある犬食擁護者による犬食賛成論に対する、反論 1
W・L氏編

1. <多文化主義>だって!

(反論)
多文化主義、文化相対主義はfactsに関するもので、倫理的相対主義まで受け入れなければならないということではありません。民族主義まで行く必要もなく、「多文化主義で犬食用が受け入れられる。」という基本観点から間違っているものです。多文化主義の存在条件が人権、民主主義だというなら、その基本的価値に犬食用は違背します。

犬を伴侶動物として家族と思っている人たちに、犬食用は認められない苦痛を与える行為であり、そのような苦痛を感じる人たちが大多数であるから、倫理的普遍主義を持ち出す必要もなく、犬食用を多文化主義で説明しようとする試みは、間違いであります。

犬食用を未開で野蛮だと言う事は、“隣人の苦痛を無視し嘲笑までして、食用を主張する賛成者たち”に対する怒りの表現だと捉えます。敢えて、生態中心主義的環境論まで論ずる必要もなく、とにかく「救おう」とする立場からみるとき、「殺そう」や「殺して食べよう」という人たちを、文化的だとか先駆的だとか言う事は難しいからです。



2. <この上もない人間中心的発想>は、誰がしているのですか!

(反論)
犬食用擁護者たちは伴侶動物という概念自体を否定しています。人間と同じような身分に動物を並べおくことに対して、大層な不快感が見えます。誰が身勝手で人間中心的な思考をしているのでしょうか?・・・・・ポシンタンが株式と連関した食べ物でしたか? たかだか補養食程度に思われてきた嗜好性食品です。食べないからと、苦しいですか? 犬を伴侶動物として受け入れている多数の人たちは犬食用問題で甚だしい苦痛を感じます。伴侶動物という概念自体を嘲笑し、同種である人間の痛みまで無視しながら、犬食用反対が普遍的な動物の権利を外れた、人間中心的発想だと言うことは正しくありません。

私は菜食をします。しかし、肉食用者たちに菜食をするという話をしたことはありません。菜食をすることだけで、伴侶動物に対する保護と権利を主張することになるわけではないからです。
畜産動物の苦痛に気づき、肉食を減らさなければならないと主張したり、これ以上の産業畜産化された動物がいてはだめだと話すことは、気づきを実践していく過程です。一挙に菜食主義者に変わるだけで、伴侶動物の保護を叫ぶことができると言うことは、ある宗教に入門してすぐに成人にならなければならないという話のように、聞こえます。過程がなく成し遂げられる事はありません。

それから、牛・豚・鶏などの畜産化による苦痛を、動物保護者たちではない、犬食用者たちが論じて、他の食用家畜に対する憐憫を利用して、犬食用反対に対する反発心を焚きつけようとすることは矛盾しています。産業畜産化で苦痛を感じている既存の家畜たちに憐憫を感じるなら、菜食運動の先頭にたたなければなりません。隣人の血の涙を無視しながら伴侶動物である犬にまで、既存の畜産化の苦痛を平準化しようと言ってはなりません。



3. <犬肉合法化反対が犬虐待を幇助、助長する>という話は、一体、どのような根拠から出たものですか!

(反論)
犬が畜産化されることのできない特性を持っている動物だと言う根源的な話は置いておいて、・・・他の家畜の場合と同様に、食用が合法化されるということは、多様な犬肉産業化を意味します。既に犬食傷擁護者として有名なある教授に依っても、犬肉加工食品と化粧品を初めとした多くの生活用品の開発が進行しています。(※しかし、これはあくまでもその教授の個人的研究範囲内である。)犬肉産業化は現在の生活とは違い、犬肉に関する需要が供給を決定するのではなく、供給が需要を支配することになり、大量工場式畜産に依存されることになるという事実は、牛・豚・鶏など、既存の家畜の事例と変わりないでしょう。
市場経済体制から富の蓄積のために、大規模飼育は消費のためのいろいろな法案を用意することになり、それに従った飼育の規模は漸次拡大され、今とは比較できない規模の犬肉消費が成し遂げられるでしょう。食用合法化が大量屠殺を招くという事実は、既にいくつもの研究結果でも明かされているところがあります。「消費増大はないです」と?・・・この上もない個人的な推測を事実のように話すのは危険なことですね。

また、人間の生活圏内でもっとも容易に遭遇することのできる動物は、牛、豚、鶏などではなく犬です。
誰でもいつでもたやすく接することができるので、食用が合法化さて食べ物として見られるようになったなら、残酷な秘密屠殺は、さらに多くなることでしょう。ソウル市庁掲示板で、ある犬食用者がこういっていました。「犬は死ぬことを知らず、呼べばやっててきて簡単に捕まるから、殺して食べるのがたやすい。」と。・・・犬食用が不法だった昔にも、あちこちで起きる残忍な秘密屠殺を止めることはできませんでした。合法的な食べものとして認識される場合は、そんな屠殺がさらに増えるでしょう。犬食用合法化で残酷な飼育と屠殺を止めるということは、殺人を止めようと戦争を起こす様です。犬食用根絶だけが、拡大を止めることができるのです。



4. <犬肉を法的枠に入れ込んで、普遍的な動物権運動を模索しろ>とは!

(反論)
「犬食用と伴侶動物文化が共生できる。」と見ているとは!・・・一方では家族と認定している動物を、また一方では肉だと見ている状況が呼び起こす、深刻な副作用に対しては考えてみたことがありますか?
相互間なんの追突もなしに調和されたように、その二つの部類がなんの苦痛もなしに、同じ社会で生きていくことができるでしょうか? 食べている側ではどうか分かりませんが、犬を家族としてみている多数の人たちにとって、それは耐えられない行為だという考えが、何故できないのでしょうか?
伴侶動物文化自体を認めないわけでないならば、犬を家畜化することは、普遍的動物権を下向させるという事実をも、認めないわけにはいかないのです。

畜産先進国でさえ、代案畜産がなされることは時間の問題です。人道主義的な畜産が全世界的に成し遂げられるには、まだ多くの努力と時間が必要です。まだ、工場式畜産による動物虐待が蔓延しているのが実情です。上の文中(※犬食賛成者の原文のこと)の「先進圏の動物保護を見て学べ」という言葉は、失笑を起こさせますね。犬食用反対と伴侶動物文化が西欧事大主義だといいながら、今度はまた、先進圏から学べというのですか?・・・・まっとうな動物権運動に自ら進んでやっていくという言葉は、最後まで一言もありませんね。動物保護は犬食用に反対する人々の役割だから、自分は殺して食べることだけをしながら、動物保護運動を非難だけしていく、ということに見えます。

伴侶動物文化から認定しろと言いたいです。伴侶動物文化さえ認めることができないなら、動物権に対する言及をする資格もありません。動物の権利とは抽象的で概念的な知識ではなく、直接的な体験から来るものです。伴侶動物を通して動物が苦しんだり、喜んだりすることを知っている“人間らしい”人ならば、動物の苦痛の前で憐憫を感じるしかなく、生きている他者に対する憐憫と畏敬が自然に他の全ての生命体につながり、動物権の基礎を成すからです。


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