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お知らせ。

新しい記事のアップが進まず、申し訳ありません。
2015年には、よくある質問をさらに増やす予定ですので、ご期待ください。

また、一つ朗報があります。
英国のRSPCAと韓国の動物保護団体が共同で、二年に渡り犬肉農場・市場の現場調査を行った結果、
「韓国の犬肉は10年以上に廃止できるであろう。」と結論づけました。
韓国から犬の食用がなくなるのは、もはや遠い未来のことではありません。

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Q32 ④犬食を反対する論理的な理由はあるのですか? 

韓国動物保護団体 討論掲示板より
ある犬食擁護者による犬食賛成論に対する、反論 2
W・Lee氏 編

1. 「多文化主義で犬食用が受け入れられるのではないですか?」

(反論)
<多文化主義>ですって?!
多文化主義、文化相対主義はfactsに関するもので、倫理的相対主義まで受け入れなければならないということではありません。民族主義まで行く必要もなく、「多文化主義で犬食用が受け入れられる。」という基本観点から間違っているものです。多文化主義の存在条件が人権、民主主義だというなら、その基本的価値に犬食用は違背します。

犬を伴侶動物として家族と思っている人たちに、犬食用は認められない苦痛を与える行為であり、そのような苦痛を感じる人たちが大多数であるから、倫理的普遍主義を持ち出す必要もなく、犬食用を多文化主義で説明しようとする試みは、間違いであります。

犬食用を未開で野蛮だと言う事は、“隣人の苦痛を無視し嘲笑までして、食用を主張する賛成者たち”に対する怒りの表現だと捉えます。敢えて、生態中心主義的環境論まで論ずる必要もなく、とにかく「救おう」とする立場からみるとき、「殺そう」や「殺して食べよう」という人たちを、文化的だとか先駆的だとか言う事は難しいからです。



2. 「犬肉を好む人たちからそれを奪おうとするのは、身勝手な考えだ。」

(反論)
<この上もない人間中心的発想>は、誰がしているのですか!
犬食用擁護者たちは伴侶動物という概念自体を否定しています。人間と同じような身分に動物を並べおくことに対して、大層な不快感が見えます。誰が身勝手で人間中心的な思考をしているのでしょうか?・・・・・ポシンタンが株式と連関した食べ物でしたか? たかだか補養食程度に思われてきた嗜好性食品です。食べないからと、苦しいですか? 犬を伴侶動物として受け入れている多数の人たちは犬食用問題で甚だしい苦痛を感じます。伴侶動物という概念自体を嘲笑し、同種である人間の痛みまで無視しながら、犬食用反対が普遍的な動物の権利を外れた、人間中心的発想だと言うことは正しくありません。

私は菜食をします。しかし、肉食用者たちに菜食をするという話をしたことはありません。菜食をすることだけで、伴侶動物に対する保護と権利を主張することになるわけではないからです。
畜産動物の苦痛に気づき、肉食を減らさなければならないと主張したり、これ以上の産業畜産化された動物がいてはだめだと話すことは、気づきを実践していく過程です。「一挙に菜食主義者に変わるならば、伴侶動物の保護を叫ぶことができる」と言うことは、「ある宗教に入門して、すぐに成人にならなければならない」という話のように、聞こえます。過程がなく成し遂げられる事はありません。

それから、牛・豚・鶏などの畜産化による苦痛を、動物保護者たちではない、犬食用者たちが論じて、他の食用家畜に対する憐憫を利用して、犬食用反対に対する反発心を焚きつけようとすることは矛盾しています。産業畜産化で苦痛を感じている既存の家畜たちに憐憫を感じるなら、そういう人こそが、菜食運動の先頭にたたなければなりません。隣人の血の涙を無視しながら伴侶動物である犬にまで、既存の畜産化の苦痛を平準化しようと言ってはなりません。



3. 「犬肉合法化の反対が犬虐待を幇助、助長するのではないですか?」

(反論)
 一体、それはどのような根拠から出たものですか!
犬が畜産化されることのできない特性を持っている動物だと言う根源的な話は置いておいて、・・・他の家畜の場合と同様に、食用が合法化されるということは、多様な犬肉産業化を意味します。既に犬食用擁護者として有名なある教授に依っても、犬肉加工食品と化粧品をはじめとした多くの生活用品の開発が進行しています。(※しかし、これはあくまでもその教授の個人的研究範囲内である。)犬肉産業化は現在の生活とは違い、犬肉に関する需要が供給を決定するのではなく、供給が需要を支配することになり、大量工場式畜産に依存されることになるという事実は、牛・豚・鶏など、既存の家畜の事例と変わりないでしょう。

市場経済体制から富の蓄積のために、大規模飼育は消費のためのいろいろな法案を用意することになり、それに従った飼育の規模は漸次拡大され、今とは比較できない規模の犬肉消費が成し遂げられるでしょう。食用合法化が大量屠殺を招くという事実は、既にいくつもの研究結果でも明かされているところがあります。「消費増大はないです」と?・・・この上もない個人的な推測を事実のように話すのは危険なことですね。

また、人間の生活圏内でもっとも容易に遭遇することのできる動物は、牛、豚、鶏などではなく犬です。
誰でもいつでもたやすく接することができるので、食用が合法化され、食べ物として見られるようになったなら、残酷な秘密屠殺は、さらに多くなることでしょう。ソウル市庁掲示板で、ある犬食用者がこういっていました。「犬は死ぬことを知らず、呼べばやっててきて簡単に捕まるから、殺して食べるのがたやすい」と。・・・犬食用が不法だった昔にも、あちこちで起きる残忍な秘密屠殺を止めることはできませんでした。合法的な食べものとして認識される場合は、そんな屠殺がさらに増えるでしょう。犬食用合法化で残酷な飼育と屠殺を止めるということは、殺人を止めようと戦争を起こす様です。犬食用根絶だけが、拡大を止めることができるのです。



4. 「犬肉を法的枠に入れ込んで、普遍的な動物権運動を模索しなさい!」

(反論)
「犬食用と伴侶動物文化が共生できる。」と見ているとは!・・・一方では家族と認定している動物を、また一方では肉だと見ている状況が呼び起こす、深刻な副作用に対しては考えてみたことがありますか?
相互間なんの追突もなしに調和されたように、その二つの部類がなんの苦痛もなしに、同じ社会で生きていくことができるでしょうか? 食べている側ではどうか分かりませんが、犬を家族としてみている多数の人たちにとって、それは耐えられない行為だという考えが、何故できないのでしょうか?
伴侶動物文化自体を認めないわけでないならば、犬を家畜化することは、普遍的動物権を下向させるという事実をも、認めないわけにはいかないのです。

畜産先進国でさえ、代案畜産がなされることは時間の問題です。人道主義的な畜産が全世界的に成し遂げられるには、まだ多くの努力と時間が必要です。未だ工場式畜産による動物虐待が蔓延しているのが実情です。上の文中(※犬食賛成者の原文のこと)の「先進圏の動物保護を見て学べ」という言葉は、失笑を起こさせますね。犬食用反対と伴侶動物文化が西欧事大主義だといいながら、今度はまた、先進圏から学べというのですか?・・・・まっとうな動物権運動に自ら進んでやっていくという言葉は、最後まで一言もありませんね。動物保護は犬食用に反対する人々の役割だから、自分は殺して食べることだけをしながら、動物保護運動を非難だけしていく、ということに見えます。

伴侶動物文化から認定しろと言いたいです。伴侶動物文化さえ認めることができないなら、動物権に対する言及をする資格もありません。動物の権利とは抽象的で概念的な知識ではなく、直接的な体験から来るものです。伴侶動物を通して動物が苦しんだり、喜んだりすることを知っている“人間らしい”人ならば、動物の苦痛の前で憐憫を感じるしかなく、生きている他者に対する憐憫と畏敬が、自然に他の全ての生命体につながり、動物権の基礎を成すからです。


【“Q32 ④犬食を反対する論理的な理由はあるのですか? ”の続きを読む】

Q31 ③犬食を反対する論理的な理由はあるのですか?

韓国動物保護団体 討論掲示板より
ある犬食擁護者による犬食賛成論に対する、反論 1
J・Lee氏 編

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まず、犬肉反対をする人たちの分類と観点はいくつかあるようです。

1.伴侶動物的立場

“犬は他の動物とは違う特別な存在であるので、もっと優待されなければならず、伴侶動物であるから食べてはいけない。”

犬を実際に買ってみて、情緒的に共感をしたことのある人であるなら十分共感できるものであるが、犬を飼ったことなく、むしろ犬を嫌いな人たちには、理解するのが難しい論理である。犬肉賛成論者である、シン・ヘチョルも、この伴侶動物論を集中批判していました。正直、伴侶動物論は論理的に完全でない部分が多く、攻撃を受けるのにお誂えです。
犬を飼ったこともなく、また、犬を嫌いな人たちを説得するなら、他の論理を開発しなければならないと思います。犬を嫌いな人たちに“伴侶動物であるから 愛してください!”と、どんなに言ってみても、馬の耳に念仏になります。



2.動物保護論的立場

“犬が他の動物よりも、もっと優待を受けなければならない特別な存在ではないが、動物保護論の立場から見たとき、人間によって殺される動物の数を減らすためにも、犬肉を許容してはならない。”

即ち、この主張は肉食文化全般に対する批判的立場が敷かれているので、豚や牛よりも犬をもっと好きだというのではありません。基本的に全ての動物を、高貴な生命を持つ存在として同じように見ます。即ち、高貴な存在である動物を殺し、食べる肉食、それ事体に対して批判的であるため、なるべく肉食を減らしてみようという時限で、犬肉を反対するものです。気持ちでは豚や牛も反対したいけれど、犬肉とは違い、生活の中にもともと広範囲で広がっているため、現状況では全面的な牛肉・豚肉反対は現実性がなく、よって、すぐに反対しないというだけです。しかし、“菜食をしよう”というキャンペーンなど、他の方法を講究しています。

このように、動物保護論的立場は、必然的に“肉食反対論 - 菜食論”と連結されるのですが、肉食反対論の基本体質になる価値観は、単純に“動物を愛そう”という感情的次元から出てきもします。しかし、より現実的な部分も、根本部分に敷かれています。まさに、全世界的肉食文化が生態系を破壊し、結果的に人間自身にも害悪になるという論理です。即ち、現代人の食生活は菜食よりも肉食を主として広く再編されており、肉類を非正常的に大量生産するために、それだけ環境が破壊されるというものです。環境破壊は人間自身に不利益となって帰ってきて、結果的に人間破壊に繋がるということです。

私たちが、スーパーに行っていつでも肉を買って食べることができるようになったのは、まさに資本主義化されたシステムのためですが、徹底的に動物を“食べるもの”と見てそれらを大量飼育し、幾種ものホルモン剤を注射し、どうのように作ったのかも分からない飼料を食べさせる等、資本主義化された肉食文化は根本的に生態系に脅威になっており、畜産農家や工場式動物農場で排出される糞尿、また、各種環境汚染物質もやはり、生態系に脅威になります。過度な肉類生産がどれほど反生態的で、反環境的なのか、端的に分かる例が、まさに米国の狂牛病牛肉です。(※狂牛病の最初の発祥地は英国)

よって、肉食を反対する人たちの中には、必ずしも動物保護論者ではない人たちも沢山さんいます。より現実的次元でも肉食を減らし菜食で暮らすなら、究極的に人間の生存に助けになるという主張でしょう。
先進国の人たちが肉食を楽しむために、とてつもなく沢山の家畜たちを飼育するのですが、この家畜たちに飼料として供給される植物たちは、やはり幾何級数的に増えなければなりません。当然、植物が、種が絶え、いろいろな環境破壊が起こります。

また、上で言及したとおり、動物を急いで飼育して売るために、いくつもの非正常的な方法(ホルモン剤投与等)を使用していて、このような方法は狂牛病等、人間にも災厄になるだけの疾病を起こしています。狂牛病がどのようにして発生することになったのか、少しだけ勉強してみれば分かります。米国が世界で肉食文化が最も発達していて、肉類供給のために最も苛酷に動物を飼育し、販売している国ですが、まさにその米国で狂牛病が発生しました。その狂牛病牛肉を今、私たちが食べることになりました。私は狂牛病という疾病が現代人類の業だとみています。肉食文化全般に対する警告と言いますか・・・

韓国人が西欧の食習慣を受け入れながら肉類摂取を過度にしていますが、その結果肥満人口の増加、及び、成人病発生率も増加しました。私たちは日常的に食べる牛、豚以外に、犬肉まで合法化してしまったら、牛肉や豚肉によって発生する副作用を同じように味わうことになるでしょう。犬肉が伝統文化だという人もいますが、伝統的な我が民族は農耕民族で、主食は米やキムチのような菜食です。肉は特別な日にだけ食べたものであって、日常生活で毎日食べはしませんでした。菜食を主とした食習慣に帰り、肉類摂取はできるだけ減らすのが妥当です。



【“Q31 ③犬食を反対する論理的な理由はあるのですか?”の続きを読む】

よくある質問 一覧

【よくある質問 一覧】


Q1 犬を食べることに抵抗を感じるのは何故か?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-46.html

Q2 「食用犬」が別にいるのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-47.html

Q3 犬食は韓国の伝統文化ではないのですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-48.html

Q4 犬食反対者は文化相対主義を知らないのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-49.html

Q5 そもそも、文化とは何ですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-50.html

Q6 文化・伝統・慣習は守られるべきでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-51.html

Q7 文化よりも大切なものはありますか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-52.html

Q8 韓国人とって、犬食反対は西洋事大主義になるのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-53.html

Q9 「犬肉を食べるな」というのは、他者に対する押し付けになるのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-54.html

Q10 犬食はただ単に、嗜好の問題ではないですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-55.html

Q11 コンパニオンアニマルから先に保護しなければならないと?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-56.html

Q12 牛や豚はかわいそうではないの?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-57.html

Q13 犬食を反対するならベジタリアンになるべきでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-58.html

Q14 ベジタリアンしか犬食を反対できないのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-59.html

Q15 犬肉って体に良いのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-60.html

Q16 栄養があるから食べるのは、論理的な理由ではないですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-61.html

Q17 犬食が悪習とされる理由は何ですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-62.html

Q18 犬農場の犬たちはどのように飼われているのですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-63.html

Q19 犬食用を合法化した方が、残忍な虐待を減らすことになるのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-64.html

Q20 人間を食べてはいけないのに、動物なら食べてもよいのですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-65.html

Q21 同じ生き物なのに、植物は食べてもよいのですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-66.html

Q22 ベジタリアンは植物を差別しているのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-67.html

Q23 人間が動物を利用するのは、当然のことではないですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-68.html

Q24 「かわいそう」は、論理的な理由ではないのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-69.html

Q25 肉は感謝をして、残さず食べれば良いのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-70.html

Q26 動物利用の反対は、その産業従事者の生活を奪うのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-71.html

Q27 人々がベジタリアンになることで、経済混乱が起きるのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-72.html

Q28 ベジタリアンは肉食者を攻撃してると感じるのですが?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-73.html

Q29 ①犬食を反対する論理的な理由はあるのですか? 
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-74.html

Q30 ②犬食を反対する論理的な理由はあるのですか? 
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-75.html

Q31 ③犬食を反対する論理的な理由はあるのですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-77.html

Q32 ④犬食を反対する論理的な理由はあるのですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-78.html


・・・・今後もさらにアップ予定・・・・





【同様の質問の答えが書かれているサイト】


動物の権利FAQ
http://www.geocities.co.jp/AnimalPark/2935/faq/faqindex.html


菜食のススメ
http://saisyoku.com/



Q30 ②犬食を反対する論理的な理由はあるのですか? 

犬食反対の論理②

はじめに
2006年10月、韓国国会保健福祉委員会所属の金椿鎮議員が公開した「食用犬肉政策関連のアンケート調査」によると、韓国国民の55.3%が「犬肉を食べたことがある」と回答した。同調査を通じて韓国国民の平均的な犬肉消費量を推定したところ、1回300グラムずつ年平均4.6回食していることが判明した。1年間の犬肉消費量は165万~205万頭にのぼるとみられる。
 韓国における犬食の是非について様々な主義主張がある中、論理的で建設的な意見は殆どみられず、感情的な意見ばかりが目立っている。一度、原点に立ち返り、ここで犬食(犬肉を食べる行為)の問題点を整理してみたいと思う。

1.犬食は「韓国の伝統的食文化」ではない
 あまり知られていない事実であるが、韓国で犬を食べる行為は1980年代に急速に広まった比較的新しい風習である。犬を食べる習慣は、「古来の習慣」でも「朝鮮民族の伝統」でもなく、単なる富裕層の嗜好にすぎない。(←注①)毛皮などと同じ贅沢である。その証拠に、韓国の貧しい人々で犬を食べる人はほとんどみられない。韓国人の44.7%は犬自体食べたことはなく、犬を食したことのある韓国人に「年に何度犬を食べるか」と問うた質問にも「1~3回」が全体の64.1%を占め、とうてい「食文化」と呼べるレベルではない。韓国国内でも、動物愛護団体をはじめとし、この「新しい悪習」に対する抗議活動が各地でおこっている。(2007年には犬肉の「インターネット販売」を始めたソウル郊外の業者が、動物愛護団体の抗議や地元自治体の自粛要請などで閉鎖に追い込まれた。)
 韓国では現在犬肉を食用に販売することは法律で禁じられているが、実際にはこの法律は殆ど施行されていない。犬肉専門の高級レストランが堂々と営業し、市場でも公然と犬肉が取引されている。これは、一部の「犬肉利権集団」が政治家とコネクションを持ち、行政がこの悪習を取り締まらないためである。


2.残虐な殺し方に対する倫理的な問いかけ
 犬食の別の観点からの問題点として、その「殺し方」を指摘しなければならない。韓国では犬を食用として処理する過程で以下のような方法で屠殺が行われている。

• 撲殺
• 絞殺
• 生きたまま茹でる
• 生きたまま蒸す
• 首を吊られたときにもがくと、センサーに反応して下から火が吹き上げる。絞殺と焼殺を同時に行う。
• 生きたままケージに入れたり、上から鎖で吊るして焼きころす。こうすると犬がもがいて体をねじるので、万遍なく焼け、屠殺する人は見ているだけでよい。
• シーズーなどの小型の犬は麻袋に入れ結んだ後、金串であちこちを刺す。こうすると、犬が発狂して死んでいく。この方法は、血がこぼれ出るため、血が滲まずあとの処理が楽だという。
• 手製の電気衝撃棒にかける。意識と感覚は残っていても体は硬直するので、痛みにもがくことはできない。

これは、誇張でも例外でもない。犬たちは他の犬が殺されるのを、目の前で見るしかない。自分が先に選ばれたくないので、自分を見る人の目を避けたまま、お尻だけ前に出し顔を伏せてぶるぶる震えている。このようなことが韓国各地で現実に行われている。
 ここで特に重要なのは「犬を死ぬまで苦しませること」である。犬はしばらくじたばたもがき、時間をかけて死んでいく。ひと思いに殺さず死ぬまで虐待を加えるのは、ひとえに多くの韓国人が「拷問にかけた犬を食べると精力がつく(sexually active)」という迷信を信じているからに他ならない。ただ「肉を食べる」、という目的だけなら、ここまでする必要があるだろうか。
 このように残虐極まりない形で生命を冒涜する行為は、「文化」などという高尚なものではなく、ただの悪習にすぎない。いかなる理由を持ってしても正当化され容認されるものでないことは、現実を知れば分かるであろう。
 一刻の猶予も置かずにこの悪習を禁じなければならないほど、韓国の犬たちのおかれている現状は悲惨で壮絶である。


3.文化相対主義に対する批判
 「犬食は韓国の文化であり、中国人が猿を食べ、日本人が鯨を食べ、アメリカ人が牛肉を食べるのと同じである」という文化相対主義の考えは、韓国人の犬食を正当化する方便として用いられている。のみならず、韓国人のナショナリズムを補完する道具として現在でも広く利用されている。筆者は、文化相対主義を傲慢に振りかざす前に、この「犬食問題」の本質的な定義が必要なのではないかと考える。
 そもそも犬という動物は人間にとっていかなる存在だろうか。犬は人間の歴史の中で人間生活の利便のために飼い慣らされた生き物である。犬のライフサイクルは人為的なものであり、人間社会の一部であり、且つ、それぞれの本分が与えられている。もちろん各文化圏により異なった属性を持っていることもあるが、巨視的な面で人間と共通の「共生主体」として存在してきた。
 家畜は人間から、自然の捕食者からの保護を受ける代わりに、人間に対し労働と死を提供する。 一方、犬や猫の場合は原初的に人間とは「相利共生(Mutualism、異なる生物種が同所的に生活することで互いに利益を得ることができる共生関係のこと)」の関係にある。
 犬食擁護論者がしばしば言及する「韓国の文化的、地理的特性のため、犬もまた家畜と見なされる歴史」は一定の根拠を有するものであるが、これもあくまでも時代的背景に限定される主張であり、「人間と犬」の本質的関係に変更を加えるものではない。
 犬と人間の関係は、国や文化、時代の概念を越えてその根源を確認すれば、より明確な答えが出てくるだろう。われわれの相利共生の関係が1万5千年前の新石器時代から維持されていたことは、すでに考古学的にも証明されている事実である。犬は狩猟、運送、安保など、氷河期以後人類が社会的構造を形成するなかで必要な部分を充足させる、いわゆる「下位構成員」として位置づけられてきた。かかる意味において犬は歴史学的にも人間社会の副産物と定義することができる。


結語
 われわれ犬食反対論者が犬食を問題視する核心的な論拠は以下の点にある。つまり、人間の便益目的のために変形された存在である犬を、本来の目的とは異なる破壊的用途に変質させることは、文化の必然的結果ではない、非文明的かつ野蛮な行為に他ならない、ということである。
 他の動物や自然に配慮し、社会的調和を守っていくのは人間の義務である。犬が食べたいから食べる、毛皮がカッコいいから着る、珍しい希少動物も飼いたいから密輸してでも飼う、という考えでは地球に未来はないと言わざるを得ない。


注① :近年では中国からの輸入などによる犬肉価格の低下により、富裕層のみならず一般庶民も食すものとなっている



作成: 2010年11月7日
提供: 森岡 敏明
経歴: 大学卒業後、ソウルの官庁に就職するも、2年後自主退職。韓国政府奨学生としてソウル大学院に進学(倫理教育専攻)。3年後修士号取得。外務省専門調査員として北京の日本大使館政治部に配属。北朝鮮内政調査を担当。現在は日本に帰国。




Q29 ①犬食を反対する論理的な理由はあるのですか? 
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Q29 ①犬食を反対する論理的な理由はあるのですか? 

犬食用反対の論理①



犬を食べるべきではないのには、まっとうな根拠があると考えます。

犬はどうのようにして誕生したかご存知でしょうか。
犬の祖先はご存知のように狼です。
彼らの一部は先史時代の人類のおこぼれを頂戴しようと、人類の後を追っていました。それが犬の直接の祖先となったと考えられています。

やがて生活の余裕が出てきた人類に親しまれ、すすんで餌を与えられるようになると、狼たちは人類を信頼し、行動を共にし、助け合うことを学んで、犬として進化したのです。
つまり人間のために犬は誕生したといえるでしょう。

こうして人間と共にあらんとして誕生した動物を、とって食らうこと、ましてや意図的に苦痛を味あわせて殺すことは人道に背くものだと考えます。

確かにどの生命も痛みを感じるでしょうし、どの生物は優れていて他はバカだから殺害可とするのは人類のおごりです。
しかし現実には、人間も動物も皆、他の生物の命を奪って生きている。ただし人間以外の動物はむやみやたらに食べず、むやみやたらに傷つけない。彼らは食べて良い生き物と悪い生き物を、明確に分けています。

ある人は、生き物をその(人間から確認しうる)知性や感性から評価し、食べてはいけない生き物とするのは傲慢な誤謬である、とするかもしれませんが、かといって、自分の食卓に人間の肉やら骨やらが出てきたら平然とはしていられないでしょう。

そして給仕に「これはなにか!」と問うと、彼が「これはちゃんと農場で飼育された人間でございます。味が良く栄養価が上がるように、数回に分けて電流を流し、じわじわ殺して、最高の品質に仕立てました。」と答えたとしたら、その人は納得するのだろうか。

とても極端な例でしたが、言いたいのは食の対象には基準があってしかるべきだと言うことです。

犬を食べてはいけないとするのはわたし個人の主張ではありますが、犬が人間との共生を支えとして生きているからです。
自然の動物が共生動物を決して襲うことはないように、人間もむやみに犬を殺すことはしてはならないと思います。



提供:Odysseia (医師)




Q30 ②犬食を反対する論理的な理由はあるのですか? 
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Q28 ベジタリアンの人たちは、肉食者を攻撃していると感じるのですが

公開された掲示板などで、動物問題に関して動物愛護的ベジタリアンの事を説明すると、「攻撃的」だとか「押し付け」だとか言われる場面が多く見られる。説明を書いた側としては、そんな意図はないし単に説明しているだけで、強制的な押し付けや攻撃など考えもしなかったことである。そこで、何故そのように感じる人がいるのかを考察してみよう。


動物愛護は利他的な行動であり、その枠組みを人間から、さらに動物まで広げたものといえる。この利他的行動というものは何故存在するのだろうか?
また、この利他的行動は人間だけではなく動物にも存在しているのである。

人間に限らず進化生物学的に言うと、多くの動物は、互恵的利他主義と血縁選択説により利他的行動を進化させてきた。互恵的利他主義というのは、簡単に言えばお互いに協力すればお互いにとって利益があると言うものであり、血縁選択説とは、親子、親戚関係にバイアスが罹るということである。当然、自然選択においては有利に働く事になる。これは、自分が親子兄弟のために死ぬ事になったとしても親兄弟を残す事によって、自分の遺伝子の50%は残せるというものである。こうした自分の遺伝子を残すために有利な形質である互恵的利他主義と血縁選択説による利他主義的行動が、自然選択の中で有利に遺伝子を残すことが出来たそうである。

この自然選択で得られた利他的行動という形質においては「(罪のない)動物や人間を殺したり、傷つけることは悪いことである。」といった(この問題だけでなくもっと多岐多様なものがある)、規範的な社会的合意=直観のようなものが持続的に存在するということがみられるそうだ。

そして、一時的な欲望等でそれらの持続的な直観に反することをすると、心の中で矛盾が生じることとなり、その矛盾が一時的な罪悪感を覚えさせることになる。

動物の話に戻ると、動物利用は過去においては、生きるか死ぬかの自己保存にかかわる問題であったわけであり、上記の直観に都合のよい理由を付けてひた隠し(考えないように)にしてきたわけである。

そして、ほとんど通常の状態ではそのことに、何の疑問も抱くことなく生きてきた訳であるが、ひとたび動物問題が起こって議論になり、「都合のよい理由」に対して理論的な誤りを指摘されると、そのジレンマが突然の嵐のように心の中で罪悪感として吹き荒れることになる訳である。

だからその罪悪感は上記の都合のよい理由と比較された場合、攻撃されているような錯覚を起こすことになるのだと思われる。あるいは、突然、怒り出したりする人もいる。このことはSNSの動物関係のコミュや動物愛護関連の日記のコメントでもよく観察することができる。つまり『私に罪悪感という「悪い」不愉快な苦しみを目覚めさせたのは「君だ」』と言うわけである。つまり押し付けは『「直感的」「理論的」に逃げようのない』と言う意味であり、攻撃は、『罪悪感という「悪い」不愉快な苦しみ』を与えたという、誤謬から発生したものだという事ができる。

そう考えれば、動物の利用への(普段はひた隠しにされている為に表に出てこない)罪悪感には、相当なものがあると思われる。

もっと簡単に言えば、人間は「罪もない動物を殺すことはよくない」とか「皆が幸せになるのは良いことだ」といった、普遍妥当であり潜在的といえる(潜在的にされてしまっている)直観を持っているのだということである。

そして、(かつては動物利用をしなければ生き延びてこれなかったために)その直観を打ち消すような「理論武装」が必要であった、つまり「感謝すればよい」「文化伝統である」「慣習である」「人間はアプリオリな価値がある」「人間は神に似せて創造された」といった様々な「一見合理的に見える」理由で「理論武装」されてきたわけである。

その理論武装がないと上記の直観とのジレンマに苦しむ事となるわけである。そして、感受性の豊かな人ほどその苦しみは大きいわけである。さらに過去においては、動物を利用しなければ生きていけなかったという、自己保存に関わる緊急避難的な合理的理由があったにもかかわらず、さらに理論武装が必要なぐらいの、相当な罪悪感があったのではないかと推測できる。

しかしこういった理論武装の欠陥をひとたび指摘されると、人間は積み木が崩れるように内部で混乱を起こすことになる。自分のしてきた事が、「悪」であり自分は「悪人」であると(そこまでは誰も指摘していないのであるが)言う事になるのを自覚するわけだけれども、そんなことは認めたくない場合が多く、さらなる理論武装しようと「言い訳」を考えて再反論して来る場合が多々ある。逆に、素直に認めて改善しようとする場合もある。

「自分の行ってきた事が(昔と違い自己保存のための緊急避難的なものでなく単なる、贅沢であるという)悪であり自分は悪人であると自覚させられることになってしまう(そしてそれが自分の持つ直観と一貫性を保っている事に気付いてしまう)」この部分が攻撃されているように感じたり、怒りを覚えたりする部分であるといえる。

しかし、新たに理論武装をしようとしたとしても、それは意識的な、つまり恣意的なものであり、潜在的な直観と整合性を保つものではない。だからいくら理論武装しても、動物問題という意識を持ってしまった以上、ジレンマはなくなることなく、人間の内部に存在し続けるだろう。

これをなくす方法は、子供の頃からすでに持っている「直観」に従う事だけだと言えるだろう。



提供:KTN




Q9 犬肉を食べるなと言うのは、他者に対する押し付けになるのでは?
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Q27 人々がベジタリアンになることで、経済混乱が起きるのでは?

世界中の人々がベジタリアンになる事で、畜産業の崩壊による経済混乱がおこるのではないでしょうか?



まず、この問題定義の前提にある発想が非現実的なのものであり、検討する価値すらないと言えます。
ある日突然(極短い期間でも良いですが)、世界中の人口が肉を食べることを止めるということが有り得るでしょうか?

人々がベジタリアンになる理由は概ね、病気のため、健康、趣味趣向、宗教、環境保護、アニマルライツ、倫理、というのが現状です。
こういった人口が “突如、爆発的に増える” ということは極めて考えにくいでしょう。

今後ベジタリアン人口が増えるにしても、その増え方はゆるやかなものであるはずです。実際に今までの動向をみてもそうです。
徐々に需要が減っていくことにより、それに伴い供給も徐々に減っていくので、経済恐慌のような混乱は起こる可能性がなく、上記の質問のような憂慮をする必要がありません。



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Q26 動物利用の反対は、その産業従事者の生活を奪うのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-71.html

Q28 ベジタリアンは肉食者を攻撃してると感じるのですが?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-72.html

Q26 動物利用の反対は、その産業従事者の生活を奪うことになるのでは?

動物利用に反対するのは、その産業従事者の生活を奪うことになりませんか?


「動物愛護の人たちが動物を利用した産業に反対し、その結果、その動物性製品を買う人が少なくなってその産業が廃れた場合、その仕事に従事している人たちが路頭に迷うことになる。」と言う人がよくいます。

まず、資本主義社会では、なんらかの理由によってその商品の需要がなくなれば、その産業は次第に衰退していきます。これは、どの土地でも、どの産業でも起こることです。そうなった場合その産業の従事者は、自分たちの商品が売れるよ何らかの対策を試みる、別の産業に転向するなどして、自分の生活を保っていきます。

そもそも、上記のような憂慮をする人たちは錯誤をしてしまっています。
人々は、
「毛皮を作る人々のために、毛皮を買っているのではありません。」
「旅行会社のために、旅行に行くのではありません。」
「葬儀屋を儲けさせてあげようと、死ぬわけではないのです。」
つまり、人がその商品を買い求めるのは、それを自分が欲する、或いは、必要としているからに他なりません。
だれも、「その商品の生産者を儲けさせてあげたり、生活を保障してあげよう」と、自分が欲しもしない商品を買うことはないのです。
また、そうする義務もありません。

動物愛護の人たちが、動物利用の反対を唱えたとしても、そこに強制力があるわけではありません。
また、動物を利用した業を営んでいる人たちが、それを国民の要請ではなく本人の自由意志で行っている以上、国民が彼らの産業を保障する義務はありません。(逆に言うと、彼らには自分の業の保障を国民に要求する権利もないということです。)



提供:KRL




Q28 ベジタリアンは肉食者を攻撃してると感じるのですが?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-72.html

Q27 人々がベジタリアンになることで、経済混乱が起きるのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-72.html


Q25 肉は感謝をして大切に残さず食べれば良いのではないでしょうか?

闇雲に肉食を肯定しようと試みる人たちが、食に関する感謝の念を、履き違えて使用している例を非常によくみかけます。
そもそも「頂きます」「ご馳走様」という言葉に表される感謝の念は「食べる物を授かったこと、食べ物を食べられること、そのおかげで自分の命を繋いでいけることへの有難さから生まれる思い」ではなかったでしょうか。

戦時・戦後の長い食糧難で、最低限の食べ物にすら事欠く時代を生きてきた私の祖母は、暴飲暴食をせず、食べ物を粗末に扱うこともありませんでした。例えば、ご飯のなくなったお櫃には必ずお湯を注ぎ、こびりついている米粒の残りをこそぎ落として、次の食事のときに食べるととっておく人でした。頂き物の漬物が不味いと家族全員が口をつけなくても、「食べられないほどではない」と言って、少しずつ長い日数をかけて食べ、“味が不味いから”と安易に食べ物を捨てることはありませんでした。
食前・食後には手を合わせて祈るように厳かに、「頂きます」「ご馳走様でした」と言っていました。
本来の食に関する感謝の念はこのようなものであって、“一方的に自分が奪った命(他の生き物)に押し付ける、身勝手な言い訳”ではなかったはずです。

現代の豊かになった国々では飽食による病気が蔓延し、人間が生きるために必要である以上の食べ物があふれかえっていて、日々膨大な量の食料廃棄があります。このような状況で、“感謝をして残さずに食べるのであれば”いくらでも、また、どんな生き物でもその命を奪っていくということは、果たして普遍妥当で、正当化できることなのか考えてみるべきでしょう。

食べられる側の立場になって考えてみればすぐに分かることなのですが、自分が動物だったとして、殺されて食べられて、どんなに「感謝されても」、若しくは「謝罪されたとしても」やはり納得がいかないでしょう。
生きる権利を一方的に奪われたのですから。

さらに指摘するなら、食べるものが何もない状況で、人間も動物も自分の生存のために、食うか食われるかの戦いの上で、起きたことでもないのです。

命の犠牲は、少なければ少ないほど良いのです。
無駄に奪う命からなくして行きたいものです。



提供:KRL




Q20 人間を食べてはいけないのに、動物なら食べてもよいのですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-65.html

Q23 人間が動物を利用するのは、当然のことではないですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-68.html



Q24 「かわいそう」は論理的な理由ではないのでは?

「かわいそうだから」という理由で「犬を食べないで」と言うのは感情的であって、論理的な理由ではないと言われますが、本当にそうでしょうか?



「かわいそう」という感情は主観でもあるように思えるが、見方によっては、かわいそうと思う人にとって精神的な「苦痛」ともいえるのではないだろうか。

そうであるならば、例えば、虐待を受ける動物を見た時に、その動物自身の為に、「苦痛」を覚えることになり、つまり、動物を主体として、道徳的に「動物を虐待することは不正である(誰もが認める道徳的直観)」ということになるから、自動的に動物は道徳的主体として存在していることになるのではないだろうか。

そうなれば、動物は道徳的主体として配慮される存在であるといえる。
だとすれば、道徳的地位を持ち、人間の道徳共同体の一員であるから、道徳的権利をもつといえるのではないだろうか。



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Q1 犬を食べることに抵抗を感じるのは何故か?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-46.html

Q11 コンパニオンアニマルから先に保護しなければならないと?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-56.html



Q23 人間が動物を利用するのは当然のことではないですか?

[動物の利用を、身勝手でなく、差別原理を使わない合理的な理由で正当化することは、不可能である。]

たとえば、牛丼を食べながら牛を殺すなということを主張する人や、泥棒をしてはいけないと主張する人が泥棒をしていたり、毛皮を着ながら毛皮反対と主張する人がいたら変だろうと思う。これは多くの人が変だと(身勝手な行動だと)感じる事だろう。

だから、黒人を差別するのはダメだという人が、女性を差別していたら上記と同じく変である。それは差別原理を使っているから、黒人・女性のどちらにも不利益をあたえる事は良くないから変であると言うことが出来る。

この差別原理と言うのは「○○であるという、その存在がどうする事も出来ない理由で不利益を与えること」である。この○○には黒人、ユダヤ人、女性、動物など色んなものが入ることになる。

つまり、差別がダメであると主張する人は差別原理を使ってはいけない事になる。それを使うと牛丼や泥棒や毛皮の話と同じく変(身勝手)だということになってしまうからだ。

よって、動物だからと言う、その存在がどうする事もできない理由で不利益を与えるという、差別原理を使う事はやはりおかしいことになる。これは畜産動物等についても同じ事がいえる。(※これとは別の観点から、動物である(種が違う)という事実は存在するが、そのこと自体では、「~をして良い」という道徳的な価値判断には結び付かない。)

だから、自分が差別主義者でないとして、動物の利用を正当化したければ、差別原理を使わず、身勝手な論理を使わずに合理的な説明する必要が出てくる。

その差別原理を使わず、あるいは身勝手な論理を使わずに説明できないなら、その人は差別主義者であるか身勝手な人間であると言うことになる。当然、差別原理を使わず、あるいは身勝手な論理を使わずに説明できない動物の利用は、正当化できないということになる。



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Q20 人間を食べてはいけないのに、動物なら食べてもよいのですか?
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Q28 ベジタリアンは肉食者を攻撃してると感じるのですが?
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Q22 ベジタリアンは植物を差別しているのでは?

「植物だって人間や動物と同じ“命”です。肉食をせず、菜食を選択しているという人は、植物を差別しているということになりませんか?」

・・・・・動物の権利や動物愛護を理由に肉食をやめた人に対して、このような反論を投げかける人がよくいます。

肉食を止め、菜食を選択することは、本当に植物を差別することになるのでしょうか?
これを、考察してみましょう。

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現在、家畜にはトウモロコシや小麦などの穀物(植物)が飼料にされていて、 例えば、牛肉を1キロ作る為に、8キロの穀物が必要といわれています。つまり、牛肉を食べるということは、その8倍の植物を殺していると言えます。

家畜動物の穀物もそうですが、牧草地を増やすために毎年世界では、 日本の半分から全体の国土の広さの、森林伐採が進んでいます。私も昔、ニュージーランドの牧場に滞在していた時に、牧場が果てしなく広いので、びっくりしました。
その果てしなく広い牧場には木がほとんど見当たらず、ひたすら草だけ生えているので、それを見たとき、「これって自然破壊だ!」と直感しました。

使われなくなった牧草地の砂漠化も、世界中で進んでいるそうです。

それに比べたら、野菜畑の方がずっと狭い面積で多くの食物が作れるのです。要するに野菜畑の方が森林伐採の面積が少なくて済むということです。

今現在、中南米では、米国にハンバーガー用の牛肉を輸出するために、熱帯雨林を切り開き牧草地に変えています。牛が草を食べつくした後の土地は捨てられます。こうして、木が生えない不毛の土地が広がっているそうです。一年で、世界の熱帯雨林が日本の面積半分くらいの割合で消えて去っています。

また、インドネシアでは日本にエビを輸出するために養殖地を作ります。
そのために熱帯のマングローブの林を切り開いて養殖場を作ります。
でも、5年も経つとヘドロが溜まり、養殖が続けられなくなるので、また別の林を切り開きます。

これだけ読むと、一見、破壊しているのは植物だけのように思われがちですが、熱帯雨林や森林が無くなれば、それだけ野生動物の住処もなくなる事も意味するのです。要するに動物も住めない環境になるということです。
結果として、肉食することにより、植物と動物の両方の命が多大に犠牲にされていることが分かります。

もちろん、菜食者が増えれば野菜畑は増えますが、野菜は動物のように走りまわらないので、その場だけの面積で済みます。 植物の栽培には家畜動物の牧場ほど、面積を必要としません。それが植物と動物の違いだと言えます。
人が必要とする食べ物を育てるため、同じ量を生産するのに、植物の方が断然、環境への負担が少なくて済むのです。
生きるために奪う命に向き合うその姿勢が、結果的に、動物だけでなく植物の命の犠牲も減らしているのですね。

人は何かの命を奪わなければ生きていけません。しかし、同じ奪うにしても、その奪う命を少しでも減らす選択・努力をすることはできます。
肉食をやめることは、動物を守るだけでなく、肉の生産のための莫大な植物の犠牲を無くすことになり、環境破壊を食い止めることになり、その結果は、人間も含めたこの地球上のあらゆる生命を守ることに繋がるのです。



提供:RM



Q21 同じ生き物なのに、植物は食べてもよいのですか?
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Q21 同じ生き物なのに植物は食べても良いのですか?

何故、同じ生き物(命)なのに植物を食べるのかという問題は次のような理由だと思われる。
「人間は何故、人間を殺してはいけないのか」
という問いに答えがある。

1. 死は不可逆的なものである。
2. 多くの場合、死ぬまでに多くの苦痛がある。
3. 将来の希望や、いろんな利益を経験する機会を奪う。

と言うことである。

1は、生命のあるものは大切にしなさいということである。
2は、苦痛を感じる能力があるものは殺してはいけないということである。 人間も動物も快苦を感じる能力があり、苦痛を良い事としない。
3は、自意識もあるものなら、なおさら、殺してはいけないと言うことである。

1は、全ての生物に当てはまる。
2は、脳や中枢神経を持つ生物に当てはまる。
3は、哺乳類の幾種かに当てはまる。

つまり、人間が他者の生命を奪わなければ生きていけないのであれば、苦痛を感じる能力がなく、自意識のない生物を食べることが良い選択となる。その条件で人間が食べれる物という条件を満たすものは、「植物」 と言うことになるのである。

特に2に関していうなら、 人間も動物も苦痛(を受ける事)を良しとしないのであるから、同じ食べるのであれば、苦痛を感じないような生物を食べることが平等な配慮になる。

また、同じ命なのに植物を種差別しているのでは?という、疑問が出てくるが、著書[Animal Liberation] でP・シンガーは「利益に対する平等な配慮」の原理を提唱しており、苦痛を感じる存在者には平等な配慮をすべきだとしている。つまり、苦痛に依拠していることになる。

だから、人間も動物も配慮の対象になるのであり、苦痛を感じる人間が人間であるという理由で、動物を配慮の対象にしないのは、白人が白人であるという理由で、あるいは女性が女性であるという理由で人種差別や女性差別をしたのと同じく「種差別」と言うことになる。 これが本来の「種差別」である。

一方、植物には(脳や脊髄、神経がなく)苦痛を感じる能力がないのである。 したがって、人間や動物と違って、平等な配慮を受ける理由が無いことになる。 だから、植物と動物や人間の間には「種差別」は存在しないことになる。

これは、種差別をせず、身勝手な議論にならないようにするなら、動物の利用自体が正当化できないことを意味することになり、裏を返せば、種差別をし、身勝手な議論においてでしか、動物の利用は出来ないということになる。


提供:KTN

※ 種差別(スピーシーシズム) speciesism
1973年に心理学者のリチャード・ライダーが作った用語。
人間と種が違うことを根拠に、人間に対するのと異なった扱いをすることを正当化する態度を指す。人種差別 (racism) や性差別 (sexism) といった単語と同じやり方で作られているこの言葉には、種による差別が、人種差別や性差別と同様に無意味で根拠がないものであることを明らかにしようとする意図がある。 ピーター・シンガーが『動物の解放』(Animal Liberation) の中でこの言葉を使用したことで、広く知れ渡るようになった。




Q20 人間を食べてはいけないのに、動物なら食べてもよいのですか?
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Q22 ベジタリアンは植物を差別しているのでは?
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Q20 人間を食べてはいけないのに、動物なら食べても良いのですか?

犬や猫等のコンパニオン・アニマルの命に対しての
道徳上の権利について議論していると、
必ず他の動物(牛・豚・羊・鶏など)や、植物の事を
持ち出してくる人達がいます。

犬猫食反対に対して一番多いのが、他の家畜は?という声です。

この意見に対しては、せめて人間の身近にいて食としての必要性が
認められない動物だけでも食のカテゴリーから外してあげませんか?
と言えば、納得される方もいます。

しかし、日本もクジラやイルカを殺しているが、文化であるから
批判される筋合いはなく、自分達も他の国の食にあたるものを
批判するべきではない、という意見も多いです。

自分が正しいと思うことでも他人に(他国に)押し付けるべきでは
ないという、寛容な姿勢(寛容主義)が最も正しいという意見が
今の日本では多く見受けられますが、
それは個人主義の中の「自分さえ」という気持ちの言い訳に
なっていないでしょうか。

自分の「正しい」を押し付けるべきでないというのであれば
自分の犬を盗んで食べた人や、自分の子供を殺した人が居たとして、
悪気がなければ一切、反論せずに許さなくてはなりません。
それが出来ないのであれば、筋道が通らなくなってしまうからです。
このように寛容主義の主張には、落とし穴があるのではないでしょうか。

では、「文化」はどうでしょうか?
「文化であるから」と、文化を普遍的なもの、絶対的なものとして
捉えるのであれば、過去に行われた慣習(文化)までも、全て
残されていなくてはなりません。
善いものは残され、時代に見合ったものとして変化しています。
悪習までも文化(慣習)であるから、と容認し、継続するべきなのであれば
一例として、日本の切腹や晒し首なども普遍的に残されていなくてはならないもの
ということになります。

命あるものとして、動物も人間と同様に、なぜ尊重しなければならないのか?
それは、善い・悪いの価値判断によりますが、 一言で表すと、“差別”だからです。
人間以外の動物への差別は、あらゆる差別へと結びついていきます。

動物が虐待・虐殺されたり、保健所で殺されている事には
多くの方が異議を唱えられますが、食されている事に関して
なぜ多くの方が反対しないのでしょう。
「食する」という前提があれば仕方がない、とか
人間が食物連鎖の頂点だから、という意見があります。

食物連鎖の頂点という意見ですが、地球で人間だけが
食物連鎖に加わっていません。
それは、人間だけが捕食するという言葉の域を超えているから
です。

「食する」前提についてですが、それは全くの人間都合の言葉であり
殺される動物にとっては、食するために殺されようが
精神異常者に虐殺されようが、説明しても言葉が通じないのですから
全く同じ事です。 たとえ言葉が通じたとしても、「食べるためなら
殺されても仕方がない。」と思う動物はいないでしょう。
苦痛と恐怖の長さに多少の差があっても、恐怖におののき、
鳴き叫びながら絶命していることに変わりはありません。

食肉にされている家畜は人道的に育てられて殺されている、
と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、農場、屠畜場の状況を
見れば、そうではないことが如実に分かります。
スーパーで売られている豚肉や牛肉の値段を見れば、良質の餌を与え
良い環境で育てられ、一頭ずつが確実に苦痛なく殺され、流通して
いるなら、そのような値段にならない事は安易に想像できます。
(※苦痛なく殺すのであれば善い事である、という意味ではありません)

何故、人間以外の動物の命なら構わない、仕方がない、
と思うのでしょうか。

言葉が話せないからでしょうか?
言葉が話せないというのなら、人間の赤ちゃんや幼児も同じです。
何かを要求したり伝える時には、泣いて知らせたり、自分にできる
最大の表現方法を使います。
それは、他の動物も全く同じです。
あらゆる感情や痛みなどの表現を人間に伝えやすい動物ほど
人間の心に投射し、意識を融合しやすいので感情移入する
度合いが大きくなります。
その度合いの大きいものほど、救ってやりたいと
思う事はとても自然な心情です。

それでも、人間と他の動物を一緒にするな、というのであれば
それは人間と種類が違うからでしょうか?
見た目が違うからでしょうか?
種類や見た目というのであれば、それが人間においても
「差別」として行われていることが、とてもよくわかると思います。
そして「差別」= 悪いことです。
人種差別。外見の差別。

自分と全く肌の色や見た目の違う人種、
体の不自由な方への偏見、
顔立ちが綺麗だと思う人・そうでないと思う人、
その他の身体的特徴など。

つまりは、動物に対しての差別を善い事として正当化できる
理由がないのです。

人が人を殺してはいけない理由は、なんでしょうか。

・殺すときに多大な苦痛を与える事になる。
・将来、出会うであろう快苦等の機会を奪う事になる。
・周りに悪影響を与える。

だから人が人を殺してはいけない。

これは動物にも当てはまり、この理由で人間を殺すことががダメであるなら、当然、動物を殺すこともダメだという事になります。

これが公平な論理になります。

(特に先進国の)人間は動物を利用しなくても生きてゆけます。
また、その事を知っています。
つまり動物を利用しなくとも、人間の生活がより悪くなるわけではないのです。
言いかえれば、贅沢のために利用しているにすぎません。
そうすると動物を利用する合理的な理由はないことになります。

にもかかわらず、現実では、家畜も含む動物は人間の勝手な都合で
論理を無視して殺されています。

だから、このことは動物が不正な差別を受けているという証明でもあります。

動物を殺す事は正当化できません。善い事ではありません。
それを踏まえた上で、まずは身近な動物や、苦痛の大きい動物から、
人間の身勝手な支配から解放するべきです。

自分に出来ること・出来そうなことは
それぞれ違うと思いますが、
ひとつでも多くの命を救える(解放できる)ように
努力していかなくてはなりません。



提供: LAVENDER



Q1 犬を食べることに抵抗を感じるのは何故か?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-46.html

Q21 同じ生き物なのに、植物は食べてもよいのですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-58.html

Q23 人間が動物を利用するのは、当然のことではないですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-58.html

Q19 犬食を合法化した方が、残忍な虐待を減らすことになるのでは?

合法化された畜産動物が、どれほど悲惨に飼育され残酷にと殺されているのかきちんと知っているなら、そして、その飼育とと殺方法が効率と利潤だけのために、徐々に悪化の道を歩んで来たということを知っているなら、到底、そのような事は言えないはずです。
犬も畜産化されると利潤追求のために、より巧妙な虐待方法が漸次開発され、さらに劣悪な飼育条件に置かれるようになるからです。(同様に、合法化は“衛生”を担保してくれるものでもありません。)
活動性が高い犬たちですが体重を増やそうと運動は制限されるので、底が網状になった檻から一歩も外に出られることなく生き、死ぬことになるでしょう。吼えることができないように鼓膜を破ったり、制限的な給水を通して活動性を鈍くして、えさを少なく食べさせるようにする悪徳業者たちは今も存在し、合法化されたからと取り締まりができるものではありません。

それから、一般的に犬のと殺方法で使用されると知られている電気衝撃法も、一度で死なない場合が多い苦痛に満ちたと殺法です。しかし、さらなる問題は、合法化されたとしても犬は誰でも間単に飼う動物なので、非合法的にと殺するのを防ぐのが難しいということです。
犬を生きたまま焼き殺すために犬を結びつける装置が、目に付かない場所に隠されていたのが発見されたことがあります。これは、犬が酷い苦痛にアドレナリンを分泌して、肉質がよくなると思われているからです。その上、生きたまま焼くと、犬が苦しがり自ら体をひっくり返してくれるから毛を焼くのが楽で、殺すことと毛の除去を一辺で行えるためです。
小さな犬たちに使用するさらに残忍な方法が幾つかありますが、とてもここでは言及することができません。これらはすべて電気でと殺すると血が固まって不味いからと言う理由、そしてもっと楽に殺すために使用する方法です。だから幾分の罪責感なく、もう少し美味しい肉を作ったり、もう少し簡単に殺そうと、動物たちに最小限の配慮もしない人たちを、犬食用合法化政策と不実な動物保護法でどうやって防げるということですか!

現行法に既に残忍なと殺行為や虐待行為禁止条項があるにもかかわらず、実際はこのような残忍な犬のと殺行為で処罰を受けた事例はほとんど皆無です。したがって、犬を殺して食べてもよいと合法化までしたのなら、苦痛のうちに生き、悲鳴で死んでいく犬たちは、今よりもさらに多く増えていくしかないのです。

また、活動性が強く鋭敏な犬たちが食用に閉じ込められて飼われること自体が、改善の余地がない残虐な虐待状況で、合法化が飼育過程での虐待を減らすという期待は、全くすることができません。もう一度言いますが、犬はどんな動物よりも狭い空間に閉じ込めて飼う畜産体系に合わない動物です。
ところが、犬の畜産化はすでに利潤追求の法則によって、“猛獣”を飼って食べる事態にまで至りました。体格を良くしようと闘犬品種に改良された土佐犬等と、ヌロンイたちを高配させた猛犬たちが、すでに犬農場の70%を占めているということです。よって、ストレスと異常行動がさらに酷く現れ人をかみ殺す事件まで、あちこちで頻発しています。人間の欲がどこまでのぼりつめなければならないのか、深く考察してみなければならない問題です。

さらに悪いことには、合法化されたなら“犬は食べても良い動物”だという認識の澎湃によって、どんな目的で飼うようになったとしても、犬という動物に対する散発的な虐待と残虐行為はさらに蔓延されるもので、むしろ、その行為に対する政府の規制事態が不可能である状況が招来されるでしょう。



出所:KARA 動物保護ムック<息吹>創刊号




Q2 「食用犬」が別にいるのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-47.html

Q17 犬食が悪習とされる理由は何ですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-62.html

Q18 犬農場の犬たちはどのように飼われているのですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-63.html



Q18 犬農場の犬たちはどのように飼われているのですか?

犬肉合法化の真実は! 犬肉合法化が招く結果は!

もし、犬食用が合法化されると・・・
犬たちは穏やかに暮らし、苦痛なく殺されるのだと言われましたか?


1. 生まれるとき

早く大きくなり、子供をより沢山産み、体の大きな犬たちを得るために、交配や人工授精が施されます。

補身湯(犬肉の鍋)用の雄犬出産のための人工授精の試みは、既に何年か前に大きなニュースになりました。
この課程で形成される利益集団の研究は、動物実験に準ずる、残酷な苦痛を犬たちに強要させるものです。

母犬は継続的に出産をしなければならないので、子犬たちは母犬による子育てを受けられません。また、多くの雄犬を産む母犬は、母系で連続的な出産をさせられ、出産率が落ちると屠殺場へ連れて行かれます。

生まれるとすぐに母犬から離され、屠殺されるまでの数ヶ月の一生を、子犬時に経験する剥奪と不安によってもたらされる苦痛の中で生きることになります。


2.飼われているとき

活動性の高い犬が吠えたり活動すると、消耗される精力を肉として還元することが出来ないので、飼料効率を高めるため、犬たちの活動を抑えることができる飼育方法が考案されることになります。

特に犬たちの場合は基本的に活動性が非常に高い動物であり、さらに肉食動物なので飼料効率は大きな問題となります。

犬たちは不足的な栄養供給で辛うじて生き延びている中、成長率が遅くなる時点の6~8ヶ月で屠殺されます。

体重を増やすために運動を制限したり、動物虐待的な飼育方法であるトゥンジャン(非常に狭く、排泄物が下に落ちるよう底面が網状になったケージ)で、一度も土を踏むことなくと殺されます。

制限的な給水を通して活動性を鈍くさせ、飼料をより少なく食べさせる悪徳業者たちは今も存在し、犬飼育者が増えるにつれて、さらに増えていくものです。

刺激に反応して吠える犬たちの厄介な(?)本性を抑圧するために、現在、一部で内々にとり行われている鼓膜貫通聴覚障害(原文:鼓膜穿つつんぼ)にさせる等の試みが、今後、有用な技術として検討されないという保証はありません。

合法化環境の中で犬たちが苦痛なく飼育されるという信心は、漠然とした幻想であり自己慰安にすぎません。
なぜなら全国で飼われるその多くの犬たちに対して、このような苦痛が与えられないように監視、管理するシステムを構築するということ、そしてそこへ予算と人力を投入するということは不可能なことで、国家はそのようにする意思事体無いないからです。


3. 屠殺されるとき

犬たちを人道的に屠殺する方法は全世界で研究されたり報じられることがありません。
現在、犬肉業者たちによって考案され、使用されている私製電気衝撃棒の場合も、犬たちへ途轍もない苦痛を引き起こす屠殺方法だと言う問題提起は、以前から継続提起されて来ています。

死ぬまで鞭で打たれて死んだり、首から吊り下げられ息が絶えるときまで苦痛を受けたり、生きたまま焼かれることと比較して、電気衝撃棒や屠殺場での死が、それならば人道的だと言う単純比較は可能です。
しかし、生きたまま焼き殺したり鞭打ちで殺すことは、その行為自体を禁止しなければならず、他の屠殺方法で屠殺すれば良いということは、動物保護という哲学を具現する道に全くなり得ません。

合法化を通して犬たちは「食べる動物」だという認識が勢い広がっていきます。人によっては誰でも飼う事が簡単な犬たちは「国家公認の食べても良い動物」として認識固着されて、山で野で、奥まった路地の入り口がどこか分からない見えない場所で、今と変わりなく酷くて残忍な屠殺の犠牲物となります。故に、合法化という制御は犬に対しての認識悪化につながり、合法化後、さらに制御が不可能になっていくのです。

合法化環境では散発的な残忍屠殺の蔓延と理路的な国民性質の凶悪化を招きます。また、愛犬家たちが漠然と期待する人道的屠殺に反して、既存の無秩序、非人道的な屠殺に加え、屠殺場での大規模屠殺のみ追加されるという、悪影響だけをもたらします。

犬肉衛生管理を通した事実上の合法化を中止し、残忍な屠殺は動物保護法によって制御していくことが正しい道であり、このようにしてのみ、犬食用のための残忍な屠殺を法で規制することがようやく可能になります。

(注)ここに書かれている犬たちへの虐待行為は全て、現在、行われているものです。



2006,08 提供:KARA




Q17 犬食が悪習とされる理由は何ですか?
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Q19 犬食用を合法化した方が、残忍な虐待を減らすことになるのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-64.html


Q17 犬食が悪習とされる理由は何ですか?

韓国に犬食があることによる悪影響は計り知れなく、犬食さえなくなればそれに付随して自然によくなっていく問題がいくつかあります。
よって犬食は“高尚で守るべき”というイメージのつきまとう「文化」ではなく、その要素から「悪習」と認識することが妥当だと分かります。


・屠殺時には苦痛をあたえてじわじわ殺すと「栄養価が増す」、「味がよくなる」と信じられており、その屠殺方法は極めて残虐である。

・犬肉業者による犬飼育場は、施設も整っておらず土地や水質、騒音などの環境問題を引き起こしている。
また、飼育の仕方も極めて劣悪、且つ虐待的である。

・食用にされている犬がいる一方、犬は伴侶犬としても定着しており、韓国内で愛犬家人口は増え続けている。こういった伴侶犬たちが、犬肉業者によって盗まれる事件が少なくない。

・動物団体などのシェルターから保護中の犬たちが盗まれる。

・本当は犬肉業者に売ることが目的の譲渡希望 = 里親詐欺が頻繁にある。

・自治体からの委託を請け負っている民間の遺棄・遺失動物保護所から、捨て犬や迷い犬が犬肉業者に横流しされている。

・動物病院で病死した犬などが、獣医師によって犬肉業者に横流しされている。

・犬食があることから、犬が安易にお金になる国なので、一般人による飼い犬の繁殖が盛んに行われている。(初めから犬肉としての金儲けの人もいれば、生まれた子の引き取り先に困らないので、安易に子供を生ませる人たちが後をたたない。後者は、最後には犬肉業者に流れていくということを知らない場合が多い。)

・徘徊している捨て犬・迷い犬は、犬肉業者が捕獲したり、一般人に捕まえられて犬肉業者に売らたりしている。こうして、飼い主の元に帰る機会も、新しい家庭に譲渡される機会も奪われている。

・一般家庭や、ホームレスなどが、自ら犬を屠って食べることもめずらしくない。

・犬は「食べるもの(家畜)」或いは、「食べることもできるもの」という認識から起こる虐待行為がある。その思考は「どうせ後で殺して食べるものなのだから、何をしても良い」というものであり、それが虐待行為であることすら認識できていない。また、同じ認識から、犬に対する人々の意識(犬の立場)が向上しにくい状況となっている(家畜は伴侶動物よりも下に見られるということ)。よって、家庭犬であっても劣悪飼育や種差別が根強い。

・数は犬ほどではないが、同じ目的で猫が犬肉の代用にされている実態があり、猫も犬と同様の境遇にある。



提供:KRL



Q3 犬食は韓国の伝統文化ではないのですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-48.html

Q18 犬農場の犬たちはどのように飼われているのですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-63.html


Q16 「栄養があるから食べる」・・・これは論理的な理由ではないですか?

犬肉を食べる論理的な理由に「栄養があるから食べる。」ことを主張する人がいますが、果たしてそれは正当なものなのでしょうか?


(注1) 韓国の一部の人にとって犬肉は、日本人のイメージするただ「栄養があるもの」とは数段かけ離れた、薬のような極端に優れた食物と認識されています。

(注2) 栄養があるかどうかは確認されず、あると“信じられて”きました。


栄養があると信じられていた犬肉の成分が、既存の他の家畜の肉と何ら変わらないことが科学的に証明された今、その論理が成り立たなくなりました。また、食べ物が溢れ、むしろ飽食のため人々が病気にかかる時代として、肉食事体に価値が無くなってきました。

ちなみに、食べる理由の違いとして、(韓国でも本来はそうでしたが)「食べ物に事欠く地域では、貧しい人々が生存のために犬を食べることがある。」というのがあります。これは、犬肉の生態学的な利用と価値にあたります。しかし、これも現在の経済発展した豊かな韓国ではすでに過去のものです。



※ 現在でも、貧しい人々が生存のために犬を食べることがあるフィリピンでも、犬肉は違法になっています。


※ 韓国日報に、医師による「補身湯は、保養食ではない危険な食物」という記事が掲載されました。
http://news.hankooki.com/lpage/society/201107/h2011070408443621950.htm



提供:KRL



Q15 犬肉って体に良いのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-60.html


Q15 犬肉って体に良いのでは?

犬肉は高タンパク、高カロリーである以外に、特別な効能があるわけではありません。現代社会においては、正常な食生活をしている人であれば特別な補養食など必要ではありません。今、韓国では成人の肥満人口だけで1,000万人を超え、糖尿病患者も1,000万人の時代に突入しつつあります。行き過ぎた栄養供給からダイエットがトレンドになって久しいほどです。ですから、補養食によるカロリー、タンパク質、脂肪の過剰摂取は、むしろ健康を害するだけです。その上、普段家で食べる一回の食事は500~700キロカロリーですが、お酒まで飲みながら補養食を食べると4,000キロカロリーになるのが普通で、安心して食べてしまうと10,000キロカロリーまで摂取してしまうこともあります。

また、漢方で犬肉は「小陰人」以外の体質の人たちは食べることができない食べ物であり、特に体温が高い人にとっては毒になります。よく人々がしているように、生のにんにくと焼酎まで添えるとさらに危険です。

食品工学科のリュウ・ビョンボ教授は、実験の結果、犬肉に他の肉類より精力に良い成分を探すことは難しいと述べており、消化に良いということも、人工胃液で各種肉類を実験した結果、大きな違いがないことを明らかにしました。むしろ、性ホルモンの合成に関係する脂肪含量は、犬肉は他の肉に比べて落ちるとしており、精力に良いという話は虚構であるという指摘もあります。
老化防止専門家であるクォン・ヨンウク医学博士も「過去の栄養が欠乏していた時代は、高エネルギー、高脂肪食が精力に効果があったが、現在の栄養過多の時代に高エネルギー、高脂肪食を摂取すると、むしろ精力が減退する。犬肉、蛇スープ、オットセイの生殖器、クマの胆嚢、鹿の血などが精力増強の助けになるのではなく、本当に精力増強に良い食べ物は、五辛菜、穀類、クルミ類、海産物である」と述べています。

ソウル大病院薬剤部の結核治療剤、補薬指導マニュアルには、犬焼酎が肝障害と免疫性低下を誘発することもあるために服用しないようにと勧奨する内容が含まれています。

また、補養食によるタンパク質の過剰摂取は、むしろ骨粗しょう症と腎臓結石の危険性を増加させます。それだけではなく、温かいスープ類の中には食塩がたくさん入っている点も注意が必要です。結局、肉類の摂取を減らし、小食と野菜、果物を中心とした繊維質が豊富な食品を主にしたメニューが健康の秘訣なのです。

本当の補養食とは肉料理のことではなく、味噌汁、豆の麺、きのこ鍋、混ぜご飯、ナムル、海藻の和え物、野菜で包んで食べるご飯など、私たちが常日頃から慣れ親しんでいる食べ物のことを指しているのです。




出所:KARA 動物保護ムック<息吹>創刊号(抜粋)




Q16 栄養があるから食べるのは、論理的な理由ではないですか?
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Q14 ベジタリアンしか犬食を反対できないのでは?

自分は肉食をするので、犬食の反対はできないと思っていませんか?
韓国には「先ずは犬から」、そして「せめて犬だけでも」という思いから、犬食の廃止を目指している人たちがいます。



犬食用をなくすことは隣人愛である

犬は人間のために生まれた、唯一の動物だ。
私たちが私たちのそばで生きていく犬を保護もできずに、動物保護を叫ぶ事は偽善であり嘘である。

犬によって私たちは、最初の動物と接触することになった。
犬は動物愛の始まりであり、地球家族全ての共存と共生を教える伝道師だ。

私たちが犬を食べてはいけない重要ないくつもの理由のうちの一つは、 私たちの周囲に犬を家族として受け入れ、全ての犬の苦痛を自身の苦痛のように考えて生きている、数多くの隣人がいるからである。

犬食用をなくす事は、動物愛に先立って隣人愛だ。
犬食用をなくす事は、どんな論理や動物愛に先立って、そのような隣人に対する、私たちの社会の成熟した最小限の配慮だ。






犬“だけ”ではなく、犬“だけでも”です

犬肉だけを食べるなというのではありません。
犬肉だけでも食べないように願ってなのです。
「犬だけを特別扱いするな」と言うなら、私たちは犬までも見放して食用に転落させ、合法的に虐待を受けるようにしなければならないのですか?
そうではないでしょう?

肉食の禁止法に関して私たちが論じても、人々には関心のあるそぶりすら見えません。
しかし、犬肉禁止法を論じると、たくさんの人々が関心をもち、火がついたように論争が起こります。
それくらい犬肉に対して、人々の認識が変わってきているという証拠です。

私たちの最終の目標は菜食の普遍化です。その初めの段階が犬肉根絶です。
犬だけ特別扱いするのではなく、まだ、食用に完全に転落していない犬を、かわいそうな犬だけでも、
動物虐待の沼から引き出してあげようというものです。
私たち人間は、どうか殺傷の業を少しでも減らしましょう。



出所:YUSAMO




Q12 牛や豚はかわいそうではないの?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-57.html

Q13 犬食を反対するならベジタリアンになるべきでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-58.html


Q13 犬食を反対するなら、ベジタリアンになるべきでは?

ベジタリアンでないと犬食用に反対できないのではないかと誤解していませんか?
実は、多くの人が見落としている点があるのです。

牛や豚、鶏などの家畜は本当に昔から、多くの国で食用動物として認識されて来た動物です。(勿論一部の国では宗教と関連し禁忌されているところは除きます。)
人類が蛋白質の主な供給源としてこれらの動物を食べ始め、結果的に法律の輪の中で大量飼育化されたのです。 どんな飼育環境で飼ってどんなふうにと畜されるか決められている合法的な家畜動物です。

この動物たちの飼育環境やと畜過程の問題を解決するためには、現存する法で動物福祉を向上させる方向で法案を加えるか、すでに規定された法律を変えていく方向で我らが努力しなければなりません。だか、それが大変難しいのです。まず、決められた法律を変えたり、新しく入れ替えたりすることがとても難しいです。動物保護法がちゃんとできている先進国でさえ難しいんです。なぜなら、すべてに利潤というものが入っているからです。動物にとって快適にするような方向で法律が変わると、すぐに利潤が減少するから、それを防ぐためにいろんな方法やワイロなどを使いますので、政府はほとんどがお金になる側に付きます。

いずれにしろ、これは先ず、動物福祉向上で解決すべきことであり、本当に沢山の人たちが食用で摂取するこの動物たちをすぐに法律で禁止しろ!と要求することは、少なくとも今の時点では非常に困難です。

しかし、犬は厳として法的に食用として認められた動物ではありません。また犬が食用化されることに付随する虐待問題などは必ず犬肉・犬食用不法で解決し、虐待問題の発生そのものが起こる状況を遮断すべきものであります。先に合法化しておいて、他の動物たちのようなシステム化された虐待の輪に入れておいて、そこから法的な保護システムを作ることは積極的な問題解決方法ではなく、これから発生する問題を知っておきながら、その問題を発生させておいて解決しようとすることに他なりません。

さらに犬は牛や豚、鶏みたいに普遍的に食用として認識されている動物でもありません。仮にそのような認識が過去に存在したとしても、時代の変化につれて変わって来たし、それに合わせて社会的な次元で変えていくのは当然のことです

このような違いで牛や豚、鶏のような他の家畜の問題解決のスタート地点と、犬食用の問題解決のスタート地点自体が異なります。問題解決のスタート地点が違うのに、それを同じ線に持ってきて論ずることは不可能です。よって、犬食用を賛成する理由に、犬を牛や豚と同じ線におくことは、成り立たないということがわかります。
ですから、たとえ自分がベジタリアンでなくても犬食用を反対する正当性は十分にあるのです。



提供:CONAN



Q12 牛や豚はかわいそうではないの?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-57.html

Q14 ベジタリアンしか犬食を反対できないのでは?
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Q12 牛や豚はかわいそうではないの?

ひたすら利潤だけのための、工場式畜産の悲劇を知っていますか? 牛、豚、鶏! 本当にかわいそうな動物たちです。彼らは正常に体を動かすこともできない狭苦しい檻の中で、あらゆる毒性物質がいっぱいの飼料を食べさせられ、最短期間内に肥育されていき、と殺場の恐ろしいコンベアベルトで悲しい生を終結します。

動物たちが耐え難く苦しい環境の中でストレスを表出すると、それは利潤を下げろという結果を生むので、そんなストレスさえも表出することができないほどの、さらなる条件を悪くするもので問題を解決していくのが工場式畜産の傾向です。つまり、満員バスのような空間で、ストレスで仲間の尻尾を噛み切ったり、仲間をつついて空間を広げる等の問題に対して、飼育環境を改善してあげることではなく、麻酔もしないでそのまま尻尾、歯、くちばし、つめ等を切ってしまう方法を取ると言うことです。

こうして、ある動物が一旦、畜産化されると、福祉を改善するための戦いはさらに難しくなるということです。おまけに、福祉を改善していくためには、動物の種類別、用途別、年齢段階別、性別によって、専門的知識を持って個別に戦い、法制化を成し遂げなければなりません。よって、合法的畜産動物ではない犬に関しては、犬食用反対運動が助けになるのであって、動物の平等を考慮したかのように(下向標準化して)合法化してしまい、その後、その動物の処遇を考えるということは、現実的に不可能であると言えるし、無意味なコメディになるということです。故に、犬肉は“反対運動”によって、牛・豚・鶏は“菜食運動”によって、押し進めて行かなければならないことでしょう。

もちろん、すぐに全ての動物を畜産体系から解放させたいでしょう。しかし、全ての肉食を中断して、全ての畜産業を廃止しろと言うことは現実性がありますか? だから、肉食を減らして畜産動物の数を減らして行き、彼らの福祉を改善していきながら、その種類も増やさないことを主張するということです。肉の大量生産と消費を持続しながらの、畜産動物の福祉改善は不可能だということです。すでに、工場式畜産体系は、これ以上そのまま持続させることができない状況に至りました。狂牛病、口蹄疫、鳥類インフルエンザこそ、まさに自然が人間たちに与えた警告です。

結局、「牛や豚を食べるから、犬も食べなければならない。」ではなく、「人が敦厚な紐帯関係を結びながら生きていくコンパニオンアニマル(犬と猫)から保護し、牛、豚、鶏たちに対しても関心を持って肉食を減らし、その数を減らして福祉を改善していこう。」とすることが、私たちがもっと暖かく、幸せな世界に行くことの助けになるものではないでしょうか?



出所:KARA 動物保護ムック<息吹>創刊号(抜粋)




Q11 コンパニオンアニマルから先に保護しなければならないと?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-56.html



Q11 コンパニオンアニマルから先に保護しなければならないと?

動物虐待と遺棄動物問題をよく調べてみると、多くの場合犬食用問題に直面することになります。家で飼っていた動物をポシンタン(補身湯)用に売ったり、道に捨ててしまう事態は、動物との関係を軽んじ、動物も苦痛を感じるひとつの生命体として感じていないからです。
食べても良い動物だという認識が、それだけその保護価値を希釈するしかなく、実際にそうであります。よって、捨てることも、虐待することもたいした事ではないと感じるようになります。

人間社会の奥深くに存在し人と共に、家族として友達として親密に生きて来たコンパニオンアニマル(犬と猫)まで家畜へ転落させ、食べ物のメニューの一つとして定着させることはとても危険なことです。側で頻繁に遭うことができる動物を、一緒に生きていく生命体として大切に思う姿よりも、食べることもできる動物として軽く考え、虐待したり放置したりして捨てたり、あろうことか犬肉業者に売ったり、潰して食べる姿を私たちの生活環境の中で、頻繁に直面することになるということです。

人間の言葉は話せないけれど、動物もいくつかの方法で言葉を話します。私たちは彼らの言葉を読んで、表現が難しい障がい者はもちろん、一般的対人関係でも他人の心を読んであげることができる力を養うことになります。そんな配慮の甘受性と疎通と共感の能力を養いながら、情緒的安定と喜びを受けることができます。まず、身近にいる動物と、このような肯定的な関係を結んで、暖かい社会を作っていくことは、何よりも私たちの人間関係に助けになることです。

豚などいくつかの動物の種が愛玩用に飼われることもありますが、それは少数のケースで普遍的ではなく、今後も普遍化することはないでしょう。犬と猫は遠い昔から、全世界普遍的にコンパニオンアニマルに選ばれてきて、コンパニオンアニマル保護政策が別途、立てられてきています。彼らはコンパニオンアニマルに選ばれるだけの特性を持っているということです。もしも、長い年月が過ぎたあと、他の動物たちもコンパニオンアニマルに普遍化されたなら、それもやっぱり食用にしてはなりません。そのように人のそばに生きるコンパニオンアニマルをどのように遇するかは社会全般の生命尊重意識に多くの影響を与えることです。

犬の食用使用が認定されている限り、コンパニオンアニマルの保護や生命尊重という言葉は空虚なだけです。現行法でも明らかに動物の虐待と虐殺を禁止していますが、犬を苛酷に拷問したり、残忍な方法で殺した人を申告しても、警察たちは概して迅速に出てくることはありませんでした。この犬が「誰の犬か?」と訊くので、この人の犬だと言うと「自分の犬にそうすることに、何も言うことはできない。」と、回避するばかりです。現行法上、罰金刑や拘留へ処することができるケースでも、まず、警察たちが協力的な態度をするのを見ることはありませんでした。犬食用が認定される限り、どの犬がコンパニオンアニマルで、どの犬が食用なのかの区分は模糊とするしかなりません。結局、どの犬でもその社会的地位が“食用犬”水準で承諾され、虐待を防止するのが難しいのです。ここそこでたくさん飼われている犬という動物が、むやみに扱われても制裁をうけない現実、果たしてそれは、私たち人間に助けになることでしょうか

従って、コンパニオンアニマル食用根絶は、動物保護の初めのボタンだと言うことができます。
動物保護団体たちはコンパニオンアニマルではない、実験動物産業、畜産、毛皮産業等、多様な領域の動物のためにも努力しています。私たちは犬だけ保護しようと言うのではなく、各動物種が遇する現実にあわせて問題を解決していこうと言うものです。しかし、“犬だけ”保護するのか?と訊いて“牛、豚の苦痛”云々と言う人たちは、実は牛、豚を積んでと殺場へ行く長い電車に、犬を積む最後の貨物列車を連結しようとしているです。(参考:牛や豚はかわいそうではないの)



出所:KARA 動物保護ムック<息吹>創刊号




Q1 犬を食べることに抵抗を感じるのは何故でしょうか?
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Q12 牛や豚はかわいそうではないの?
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Q10 犬食はただ単に、嗜好の問題ではないですか?

犬肉を食べる人を排斥しようとしたり、特別に悪い人だと思っているわけではありません。もっとも、犬を監禁したり、くくり付けて育てたり、と殺したり、買って食べたりする過程において非常に残忍性を発揮する人たちも多く存在します。しかしながら、犬を食べる大多数の人々は平凡な私たちの隣人であり、単に少し違う経験をしてきただけなのだと考えています。ただ、その食生活を変えようとしている勢いもあります。生きているクマをくくりつけて、常にその胆液を搾り出すことに反対するのと同じような話です。習慣を簡単に変えることができるように、制度的な支援が大切なのです。

犬を食べる習慣があった一部アジアの国々でも、次々と犬食が禁止されてきています。シンガポール、ネパール、香港では犬食はもともと不法であり、フィリピンは1998年に犬と猫をと殺することを禁止しました。台湾とタイでは犬を食べる習慣がありましたが、これも禁止されました。台湾は犬のと殺を禁止することから始まり、最近では犬肉の取引を行った場合、双方を処罰し、と殺に対して罰金を強化する方向で法律が発展してきており、犬食用禁止が達成した言論の積極的な協力を元に、他の動物たちに対する保護運動を活発に達成させています。

スペインの代表的な伝統文化である闘牛も、首都圏地域から禁止され始めるようになりました。世界三大珍味であるガチョウ肝料理(フォアグラ)もEUから退出の論議が起きており、すでにシカゴをはじめとする米国のいくつかの都市では州政府がレストランでフォアグラ料理を販売することを禁止しています。イギリスのキツネ狩り禁止、中国の猿の脳の料理禁止も、やはり動物保護団体の禁止運動を通じて達成できた成果です。

自分が嫌だからと他の人に食べるなという次元の話ではありません。社会的に無難なことではないからです。ただ、自分がニンジンが嫌いだからと、お前も食べるなという次元ではないのです。単純に嗜好の問題だと縮小する問題ではありません。



出所:KARA 動物保護ムック<息吹>創刊号




Q7 文化よりも大切なものはありますか?
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Q9 犬肉を食べるなと言うのは、他者に対する押し付けになるのでは?

「あなたは~しなければならない」というのは、押し付けになるのだろうか。
「あなたは~するべきである」というのは、どうだろうか。
「あなたは~した方が良い」というのも、どうだろう。

押し付けるというのは「~を強要すること」、「~を強制すること」である。つまり強制や強要は本人の自由意志を奪うから良くないことになる。

そこで、「あなたは~しなければならない」というのは押し付けになるのだろうか。当然、これは強要、強制になる命令形である。だから、押し付けと言える。

それでは、「あなたは~するべきである」というのはどうなのだろうか。これは、「あなたは~しなければならないけれども、しなくても良い」という文章がおかしいのに対し「あなたは~するべきであるけれども、しなくても良い」というのは違和感を覚えない。何故かと言えば、前者は指令的な意味を含むのに対し、後者は指令的な意味を含まないからである。

「あなたは~した方が良いけれども、しなくても良い」も不自然な言い回しではない。つまり、指令的な意味を含んでいないからである。

つまり、「あなたは~しなければならない」は強制・強要で指令的な意味を含むが、「あなたは~するべきである」「あなたは~した方が良い」は相手が自由に選択する余地があるため、押し付けではないといえる。

議論における「犬肉を食べるな」と言う意味は「あなたは犬肉を食べてはいけない」と言う意味なのか、「あなたは犬肉を食べるべきではない」「あなたは犬肉を食べないほうが良い」という意味なのか難しいところではあるが、どちらにせよ拘束力を持つものではないので、押し付けにはならない。(例えば掲示板等で「死ね」と書かれていたからと言って死ななければならない義務が発生するわけではない。)

さて、「勧める」ことは全く問題がない場合が多い。風邪を引いたら病院に行く事を「勧める」、泥棒に入られたら警察に通報する事を「勧める」、プールに入るの前に準備体操を「勧める」、テレビのコマーシャルで自社の製品を「勧める」等、相手にとって、不利益にならないものであれば問題ないといえる。
例えば、癌に効くといって、根拠のない健康食品を「勧める」のは相手にとって不利益を与えるから良くないといえるが、いずれにせよ、相手の自由を束縛するようなものでない限り、問題はないといえる。(例えば、拳銃を突きつけなから「両手を上に上げることをお勧めします。」なんてのであれば、問題があると言うことである。)



提供:KTN



Q8 韓国人とって、犬食反対は西洋事大主義になるのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-53.html

Q28 ベジタリアンは肉食者を攻撃してると感じるのですが?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-72.html



Q8 韓国人にとって犬食反対は、西洋事大主義になるのでは?

我が国(韓国)の人間として犬食用を反対することは西洋事大主義だと言う方たちがいるでしょう。外国の人たちが嫌がるからと犬食用を反対するのだと感じるのです。しかし、それは大きな誤解です。どこにでも犬の食用が蔓延している我が国で、私たち自身が誰よりも、その弊害を切実に感じるために反対しているのです。犬食用問題は“人と犬の間の問題”であって、“我が国と外国間の問題”ではありません。外国の人が嫌がるか嫌がらないかに関しては、実際、関心もなく重要でもありません。

ブリジッド・バルドーという“一介のフランス人”の発言が犬食用反対論理の全部かのように、今に至るまで犬肉を擁護するたくさんの人たちが、彼女に対する批判だけを教科書のように暗記してくどくど繰り返しています。バルドー一つのために、フランスのすべての事に対して、アレルギー反応を示しています。また、注目を受ける外国人が妨害するなら、頑なに、犬肉を食べさせ、その食習慣を受け入れてもらいたがりました。
しかし、バルドーは犬食用を反対する人たちを代表する人では、決してありません。彼女がどのような方法で表現したかによって、犬食用問題の本質が変わるものでは、決してないのです。

犬食用を中心に置き民族主義意識にとらわれ、犬食用問題の本質を省察することよりも、無条件に“誰が我が国を悪く言うのか”という式の被害意識を露にすることが、犬食用を擁護してきた方たちの全般的な情緒でした。民族主義は普遍的価値を侵害しない範囲では、特定国家と民族の団結と繁栄を持つことができますが、それは一定の水準を越えて種族主義の傾向を帯びる場合に問題は深刻になります。過去、選民意識や度を越して国益を押し出す論理が、間違った民族主義と結合してどんな結果を生んだのか記憶しなければなりません。そうであれば、心から外国を意識する人たちは誰だと言うのですか?

ただ、犬食用を反対することにおいて、前に掲げる論理ではありませんが、現実的に犬食用が国家イメージを致命的に失墜させている要因だと指摘することができます。犬は人間と非常に親密な動物だと言う情緒が根本に敷かれていて、犬食用は数多くの世界人たちに情緒的に大きな拒否感を与えることは事実だからです。世界の子供たちがKoreaに対するっもっとも初めに聞くことになるのが“犬の屠殺”だそうです。実際に外国人を対象にした設問調査によると擁護者の7割以上が、韓国人を連想するとき“犬肉”が思い浮かんだと言ったそうです。( 韓国日報2002.8.6 “犬肉は補身文化の始まり”ユン・サンオク:(当時)「ヌロンイを生かす運動本部」議長)


我が国は国家イメージ開発議員会を置いて、国家のイメージとブランドを挙げようと努力しています。また、今は政府が進んで韓流を維持・拡大化させ、水準の高い文化意識に格上げさせていくための苦悶を熾烈にしなければならないときです。そんな中で、補身習俗だけ焚きつける犬食は、それとは正反対の道を歩くだけです。体に良いといえばなにをも厭わない一部の韓国の男性たちによって、多くの野生動物たちが密猟と乱獲で絶滅危機に処しており、それだけでなく補身観光までして周辺国の環境を破壊し怨声を聞いています。そのような補身習俗の頂点に“犬肉”があるのです。



出所:KARA 動物保護ムック<息吹>創刊号 抜粋




Q9 「犬肉を食べるな」というのは、他者に対する押し付けになるのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-54.html


Q7 文化よりも大切なものはありますか?

文化・伝統と言っても、その名の下で多くの動物が犠牲になる「食文化」については、深く考えなければならない事柄があります。 食文化、若しくは食の伝統の場合は決して人間だけの問題ではありません。食文化とは所詮、食べる側の人間だけの認識と問題であって、その名の下に犠牲になる動物の意思と立場はまったく考慮されていません。殺される動物の立場からすれば文化なんて認識も無い、要するに人間という別の生物から殺されるだけです。そういった面では食文化問題とは「国と国の食文化の違いの問題(人間だけの立場からの観点)」だけでなく、「人間と動物(殺される動物の立場の観点)」からも考えていく問題であります。

食文化とは言わば「昔からその土地の人が食べていた食材、食習慣」にすぎません。それが文化や伝統という言葉に置き換わって、その国の食文化として認識されたのだと思います。しかし、古来からの風習や習慣は時代と共に変わっていくもの、無くなっていくものが多数あります。

文化・伝統が大切であるという事は理解しています。しかし食文化を考えるなら、文化・伝統といって肯定されていたカニバリズム「人間の肉を食べること、あるいは宗教儀礼としてのそのような慣習や風習」。そういった事が行われていた時の事を真剣に考えてみて下さい。国によっては人肉が高級料理、宮廷料理として存在していた時代があることも。

食文化を考える時には、まず「食文化なんだから守られるべき」という意見を言う前に、カニバリズムを想定して「自分が人肉として他の人から食べられる=犠牲になる側からも、その立場」を考えなくてはいけません。自分は絶対に殺されない立場だけで物事を考えているなら、それは無責任だし、フェアではありません。もし自分が食べられるために殺される時に「これも食文化なんだから仕方ない、文化や伝統はそこまで真剣に守られるべき、絶対に壊してはならないもの、無くしてはならないもの」と思えれるなら、食文化を認める事が出来るとは思いますが・・・。

私が実際にその立場になった時を考えると、食文化の元で人に殺され、食べられる事は恐怖でした。要するに私はそこまで食文化のためなら死んでも良いと思えるほど、人間が出来ていませんでした。
自分が食文化の名の下で殺される事は恐怖で絶対に嫌なのに、ましてそれを全く文化への理解の無い、他種である動物にまで、食文化という名目で肯定する事は到底出来ない。それは無責任だし、自分がカリバリズムの犠牲者になるのは絶対に嫌だけど、それが動物なら良いなんて、これこそ人間のエゴだと思いました。

捕鯨や韓国の犬食を「食文化」の名の下で賛成している多くの日本人たちは、カニバリズムで犠牲になる側の自分の立場を真剣に考えた事あるのでしょうか?考えた事があって、その上で「文化や伝統のためなら死ねる」と言うなら、まだわかりますが、そんな人は滅多にいないはずです。文化・伝統は大切です。しかし、カニバリズムを考えたときに「それ以上に大切な物がある」とはっきり認識できるはずです。文化・伝統は大切、しかしそれ以上に、その文化・伝統の名の下で犠牲になる多くの動物の命ははるかに尊いものなのです。

外国人で捕鯨反対、犬食反対している人たちも、例えば、日本の歌舞伎、能などの文化には反対なんてしないでしょう。そういった面で他国の文化を否定しているのではなく、時と場合によってはその大切な文化よりもっと大事な物がある事を認識しているからではないでしょうか?

文化は大切で守られるべき物です。でもその「大切で守られるべき文化」より、もっと大切で守らなくてはいけないものが、あるのではないですか?それは文化という名の下で虐殺を肯定されている動物の命です。
人間にとって多くの食材の中の一種、また文化の一つであっても、殺される動物にしたら命そのものです。
それはたった一つであり代替の物はありません。
カニバリズムが無くなり人肉が今現在、国際的に存在しないのは、やはり「国や地域の食材と文化の自由以上に守るべき大切な物がある、それが人の命」と、当たり前に思われているからではないですか?

別の例を挙げると、あのスペインの文化の象徴、闘牛だって反対運動があり、段々廃れて廃止案も出てますよね。人が文化・伝統、古来からの風習を守っていくことも大切、でも時と場合によっては、それより大切な物があると気づいたときに、世界各国の文化の名の下で肯定されている動物の強制死・拷問死を無くす一歩になるのです。

「人の命」のカテゴリーを「動物の命(そもそも人間も動物です)」まで広げて、一種だけでも、そして、さらにまた一種、「動物の命」を少しずつでも加えられる流れを作る事が、今の人間中心主義の世の中に必要な事なのです。

提供:RM



Q3 犬食は韓国の伝統文化ではないのですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-48.html

Q4 犬食反対者は文化相対主義を知らないのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-49.html

Q5 そもそも、文化とは何ですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-50.html

Q6 文化・伝統・慣習は守られるべきでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-51.html



Q6 文化や伝統、慣習は守られるべきものではないですか?

文化である、伝統である、慣習である、社会が認めている・・・
[動物の利用は慣習であるから良いのか?]


いいえ。 もしも、「慣習である」をある行為の理由にするならば、「慣習であるから、守った方がよい」ではなく「慣習であるから守らなければならない」と言う事になる。
しかし、著しく理不尽な慣習においては、「慣習であるから守らなければならない」とはならない。つまり、守るべき慣習とそうでない慣習は「善い悪い」という価値判断をされていることになる。

そうなると、ある行為においての価値判断は結局「慣習」に関係なく「善い、悪い」で判断されているのである。だから、結局、慣習自体を理由に、ある行為を正当化することは出来ない。

また、根本的にそういった慣習が正しいのかどうかを問うているのであり、その答えが慣習だからとすると、問題の同義反復に過ぎず、理由(答え)にはならない。

さらに、例えば男尊女卑という慣習があるが、「慣習という理由」を認める人は良い悪いに関わらずそれを認める覚悟が必要であると言うことでもあり、「社会的な合意があるとする理由」を認める人は、ある人を殺しても良いという社会的合意があれば、言われなき理由で人を殺すことをも認めざるを得ない。

これは、文化や伝統、習慣などにも同じことが言える。


提供:KTN




Q4 犬食反対者は文化相対主義を知らないのでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-49.html

Q5 そもそも、文化とは何ですか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-50.html

Q6 文化・伝統・慣習は守られるべきでは?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-51.html

Q7 文化よりも大切なものはありますか?
http://dogeat.blog3.fc2.com/blog-entry-52.html


Q5 そもそも、文化とは何ですか?

日本で韓国の犬肉反対のための署名を集めたり、犬食に抗議・否定すると、必ず「他国の文化に口出ししてはいけない。」という主張をする人たちが大勢現れます。

韓国の犬食・犬肉に関する情報が極めて少なく、さらに誤報や偏った情報が蔓延している日本では、韓国の犬食は「韓国の文化(或いは、伝統文化)」という認識がほとんであるため、このような現象が起きてしまっているようです。

こうして、「文化だから」と、まるで“韓国人の犬食を守るのは日本人!?”というような、非常におかしな状態になっています。

「文化」と言えば、なぜか「絶対的で、触れてはいけないもの、変えてはいけないもの、無条件に守るべきもの」という、認識を持っている人たちが大勢います。
そもそも、「文化」とは何なのでしょう?
「文化」という言葉の落とし穴について私たちはしっかり認識しておく必要があります。


以下 提供:ONK


“文化や習慣に普遍的な価値など無い”

万人が価値を認めている訳ではない只の習慣を、文化などという空虚な言葉で飾りたてたところで、全く価値は無い。
文化とは、只の習慣であり、習慣とは単に「いままでやってきた」というだけのこと、その習慣に弊害があるのならば変えていけないものではない。
寧ろ因習や悪習は歴史の流れの中で、淘汰されるべきものであり、囚われるべきものではないのだ。

文化とは、その習慣に肯定的な価値観を有する者達が、勝手に文化だと思い込んでいるだけの幻想に過ぎない。
その習慣によって犠牲を強いられ、苦しめられる者が居るのならば尚のこと、その習慣に否定的な者達にとっては、容認を迫られる筋合いのない因習・悪習でしかない。

価値観の異なる他人に自らの習慣を、文化として受容して欲しいのなら、先ずは自らの習慣が因習・悪習と見なされる要素を改め、他人に受容して貰えるよう自らの習慣を洗練して行くべきであろう。

それを怠り、数々の弊害を残したまま、自らの習慣を文化と呼んだだけで、他人に受容を迫るのは、文化という言葉の悪用であり、因習・悪習に囚われる思考停止の態度、他者に弊害を押し付ける傲慢な態度である。
寧ろ文化という名に胡座をかき、数々の弊害を他人に押しつける因習・悪習は淘汰されて然るべきであろう。



“文化相対主義とは思考停止の思想”

「異なる文化や宗教を尊重しなければならない」などと、「文化」や「宗教」とさえ呼びさえすれば、何でも容認してしまう、或いは容認すべきだと勘違いしてしまう人達がいるが、それは思考停止に陥っている状態である。
文化も宗教も所詮は人が決めたもの、決めたのが昔の人や宗教的権威者であろうが、国や民族が異なろうが、同じ人である我々が変えていけない訳ではない。

真の友好関係とは、宗教や文化を腫れもの扱いし、触らない態度を取るのではなく、文化相対主義というイデオロギーに囚われることなく物事の是否を考え、異国や異文化であってもおかしな事は、おかしいと率直に意見を述べ合い、お互いに変化を促して行ける関係である。





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Q6 文化・伝統・慣習は守られるべきでは?
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